私の友人には、私と同じように途上国を歩いている人が多い。
この問題について、ある時私たちは義捐金の配り方について語り合ったことがあった。
国から国への寄付は、そのほとんどが、義捐金をほんとうに必要とする被災者の元には行かないだろう。
あらゆる段階においてそれにかかわる誰かが盗んで行くからである。
とすれば、われわれが持って行ってじかに被災者に渡す他はないということになる。
「あなたと私がそれぞれ予算分の一万ドルでも千ドルでも、ドル紙幣で用意するとしますね。
あなたは百ドルで100枚、私はけちだから一ドルで1000枚、という具合に、お札を手提(てさ)げに入れて被災地に入るんです。
そうすると人々が寄ってきて、いろんなことを言うでしょうね。
もちろん通訳の要(い)る場合もあるけど、おばあさんが家も家族も失って、トタン一枚を屋根に乗せた廃墟で暮らして苦境を訴えれば、それくらいの苦境はそんなに言葉が通じなくてもわかるの。
そういう時には、素早く百ドル紙幣か一ドル紙幣をその場でその人の手に握らせる。
これは間違いなくその人の手に渡るやり方ですね」
「でもそれも、うまく行かないでしょうね。
僕たちが、現金をおばあさんにやったことを見ている人がいれば、必ずそのおばあさんから金を巻き上げますよ」
「そうです。あなたの言う通りです。そのうちにあっと言う間に被災地中、私たちがゲンナマを持って歩いているという噂がたつ。そうしたら間もなく、あなたも私も金を強奪されるか、運が悪ければ殺されるかもしれませんね」
お金は集めるより配るほうが難しい。正確に、目的に叶った相手に、安全に渡すことは至難の業である。
それだからこそ救援組織の専門家たちは、その配り方を平素から考えるべきなのである。
そこまではできないか、する気のない組織には、お金を集める資格もないともう一度言っておこう。
「揺れる大地に立って 東日本大震災の個人的記録」
曽野綾子(その あやこ 1931~)
株式会社扶桑社 2011年9月発行・より
4月10日 千鳥が淵(東京・千代田区)にて撮影