秀吉の弟の「おもてなし」 | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

~毛利輝元が1588年に関白秀吉に謁見するために上洛します。

そのとき奈良滞在中に秀吉の弟・秀長による細々とした配慮が書かれています。~

 

 

 

「秀吉の接待 毛利輝元上洛日記を読み解く

二木謙一 (ふたき けんいち 1940~)

株式会社学習研究社 2008年2月発行・より

 

 

 

卯の刻(午前八時頃)に宇治を発ち、奈良方面へ向かった。

 

上洛の往路は、大坂から淀川沿いに進んだが、帰路には大和路をとった。

 

これは大納言秀長の郡山城に立ち寄ってから、大坂へ赴く予定にあったからである。

(略)

 

 

輝元一行も井出の玉水の名にひかれて井戸を見物し、茶屋にて名水で点(た)てた茶を味わい、酒を飲んで休憩した。

(略)

 

輝元の出迎えのために、秀長は五十町(一町は109メートル)すなわち五キロほどの距離をただ一人で馬を馳せ、御供も追いつかない状態であったというのである。

(略)

 

秀長と輝元は駒を並べて進み、大納言殿の 「御たや」(田屋ヵ)へ入った。

秀長の別邸であろうか。ここで秀長による振舞が催され、御供の衆にも酒食の饗応(きょうおう)がなされ、秀長の主だった家臣も列席した。

(略)

 

 

それから間もなく、輝元一行は出立した。

行く先は奈良を経て大坂へ向かう予定である。

 

 

秀長の家臣らが大勢で見送る中を輝元一行が郡山を出立したのは、巳の刻(午前十時頃)であった。

(略)

 

 

大納言秀長も同道することになった。

輝元と秀長の二人は、また駒を並べて進んだのであろう。

 

秀長も関白の移動に合わせて大坂入りするので、輝元にも途中の奈良見物を勧め、みずからその案内役を買って出たのであろうか。

(略)

 

 

来る八月三日に安芸の毛利が来るというので、奈良中はいよいよ掃除が始まったというのである。

これも大和の領主秀長の命令によるものであろう。

(略)

 

 

輝元一行の奈良到着の祝いといったところであろう。

秀長の心遣いによるもてなしであった。

 

 

成身院の宿坊に食事の膳を用意し、秀長は御供の家臣たちの部屋の隅々までまわり、笑顔で酒盃を勧めたという。

 

なんと気さくで実直な人柄であろうか。

 

関白秀吉を支えた弟秀長の存在の大きさがうかがわれる。

(略)

 

 

じつに楽しい郡山訪問、そして奈良見物の旅であった。

それもこれも、すべては秀長の細やかな心配りのお陰であった。

(略)

 

 

輝元の逗留中における人夫の食事や、馬の飼い葉にいたるまで、

そのすべてを秀長が下知し、宿所の主にまで落度なく世話をするようにとの指示を与えていたという。

 

 

それにしても、秀長の来客に対する、誠意あふれた鄭重な心遣いには驚かされる。

 

 

この輝元に対する心のこもった種々な配慮を、数日前に郡山を訪れた徳川家康に対しても行っていたのであろう。

 

 

いや郡山に来訪する多くの大名にも、同じ様な歓待と心配りをしていたのかもしれない。

 

 

下層身分からスピード出世により関白にまで上がりつめた秀吉は、

大名との人脈が希薄であった。

 

 

それゆえにこそ、こうした秀長の諸大名との親密な交流は、

秀吉を支える大きな力になっていたにちがいない。

 

 

秀長はこれより約二年半後に五十二歳で没するが、

それは彼のあまりにも誠実な人柄と、こうした過酷なまでの忙しさによる過労死であったように思われてならない。

 

                                      

 

去年(2016)の9月23日にも~秀吉の弟「豊臣秀長の配慮」~として

堺屋太一の『歴史に学ぶ 「勝者」 の組織革命』という本を紹介しました。

http://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12201377421.html

 

 

 

4月10日 千鳥が淵付近(東京・千代田区)にて撮影