秀長の採った手法を単純に要約すれば、
古参の部将から苦情のあった際には、
ためらうことなく文治の官僚を叱りつけてみせるが、
結果としては文治官僚の主張を実現する、というものだった。
古参の部将たちは、利口面の官僚たちが叱りつけられるのを見てすっとする思いだったし、
官僚たちは自らの主張が結果として実現するのに満足したのだ。
家族的雰囲気を愛する古参の部将は感情的であり、
権力志向の官僚は冷静で現実的であることを、秀長は見抜いていたのだろう。
同時に秀長は、古参の部将にも、新参の官僚や商人たちにも良き保護者となった。
大名になった加藤光泰が、家政に失敗したときにはこれを保護してのちに復職させたし、
仙石秀久が無謀な戦いを挑んで島津に大敗したときにも追放で済ませてやった。
また、千利休が秀吉の怒りを受けたときにも弁解をしてやった。
利休が切腹となるのは、天正19年(1591)2月28日、秀長の死後36日目である。
実際、秀長が生きているうちは、秀吉が部下や一族を斬るようなことは ほとんどなかったが、
その死後には尾藤知宣、神子田正冶、佐々(さっさ)成政、そして関白秀次と多くの部将や一族が切腹になる。
良き 「補佐役」 を失った秀吉の苛立(いらだ)ち、規則厳守を主張する文治官僚への抑えのなさが現れたといえるだろう。
堺屋太一(さかいや たいち 1935~)
株式会社集英社 1999年7月発行・より
7月31日 中央公園(埼玉・朝霞)にて撮影