戦国武将の贈答品がすごい | 人差し指のブログ

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パソコンが苦手な年金生活者です
本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

 

1588年 毛利輝元は関白秀吉に会うために上洛します。

 

この時、輝元に随行した家臣が書いた旅日記が残されています。

 

この旅日記の原本は不明で、「天正記」 あるいは 「天正朝聘(ちょうへい)記」 などと題する写本が伝えられました。

 

この本について、やさしく解説されたのが~

 

「秀吉の接待 毛利輝元上洛日記を読み解く

二木謙一 (ふたき けんいち 1940~)

株式会社学習研究社 2008年2月発行

 

~です、この中で私が面白かったのは(根が慾深なせいでしょうか) 登場する人達による 「贈り物」 です。

 

じつに様々なそして高額なものを 「贈り贈られ」 しているんですね、

そこでその部分だけを、紹介します。

 

                                        

 

可部では輝元を熊谷信直・元直父子が出迎え、あらかじめ用意されていた茶屋にて三献(さんこん)の酒肴(しゅこう)を饗(きょう)し、御腰物(おんこしもの) (短刀)一 御太刀(おんたち)一腰(こし)御馬一匹を進上した。

 

 

(略)

なおこの日、輝元宿所の海蔵寺に安芸高屋頭崎(かしらざき)城主の平賀元相(もとすけ)が参り、五郎正宗の脇差を進上している。

 

平賀氏は小早川庶流の国衆(くにしゅう)である。

 

先には可部でも熊谷信直が短刀・太刀・馬等を進上していた。

 

 

(略)

 

輝元が周防の国人領主の系譜を引く内藤隆春の弟である山内元興(やまのうちもとおき)に宛てた6月24日付の書状があり、

 

       今度の上洛は数代の珍儀(ちんぎ)である。

この際、特別の尽力を頼みたい。

せめて銀子(ぎんす)百枚を貸してもらいたい。

返済については必ず申し付ける。何とか工面して欲しい。

 

なお虎・豹の皮も寄贈してもらいたい。と懇願している。

 

また当時安芸高田群長田の円明寺に幽閉されていた尼子義久から、尼子氏伝統の宝刀小国行(こくにゆき)を進献されたことに対する輝元の礼状があるが、これも上洛への協力を旧勢力の出雲尼子氏にも要請した結果であろう。

 

このような協力・支援の呼びかけを広く行っていたのであろう。

(略)

 

七月十一日、昨夜の暴風雨は去り、瀬戸内は晴れ渡っていた。

辰の刻(午前八時頃)木梨元恒(もとつね)が尾道の旅宿泉屋においての朝食の一献を進めて御太刀一・御腰物(刀)を進上した。

(略)

 

午の刻(正午頃)、村上弾正忠(だんじょうのちゅう)が訪れ、浜辺に御茶屋を構えて一献を進め、御太刀・御馬を進上した。

(略)

 

増田(ました)六右衛門という人物の素性は明らかでないが、「下代官」 とあるから、直轄地兵庫の行政を担当していた役人のようである。

 

その名前からしても豊臣家の奉行増田右衛門尉長盛の一族かと

思われる。

大樽十荷(か)・鱧(はも)百尾・鱸(すずき)十尾・昆布一折りといった沢山の手土産を持参してやってきた。

 

長旅の慰労と歓迎の意を込めて、酒と肴の差し入れをしたのであろう。

 

また大和大納言秀長より 「御迎え」 として藤堂与右衛門高虎が、近江(おうみ)中納言秀次からも 「御案内者」 として白井権太夫定成が来り、熊皮の泥障(あおり)三掛と晒帷子(さらしかたびら)二十を進上した。

 

泥障は鞍の左右に垂らして馬の汗や泥を除ける馬具、また晒帷子は麻の肌着である。

(略)

 

また申の刻(午後四時頃)には関白秀吉からの 「御迎え」 の使者として蜂須賀阿波守家政が参着し、手土産の槍五十本を贈った。

(略)

 

 

~このような事が続くので省略します、あとは面白い所だけ~

 

 

辰の刻(午前八時頃)、「本願寺若門跡(わかもんぜき)御出(い)で候」

として、本願寺の若門跡教如(きょうにょ)がやってきて太刀一腰・馬一疋・

梨子地(なじじ)鞍二口を進上した。

 

(略)

宴には小早川隆景・吉川広家・織田元清・福原元俊・口羽春良・渡辺長も陪席(ばいせき)、能楽が催された。

 

その際には亭主の毛利吉成・吉政もみずから大鼓(おおつづみ)を打ってのもてなしであった。

 

鴨松太夫(たゆう)には太刀一腰・千疋、その他同座の役者へも、三百疋が遣わされ、総額は 「此の代四拾八貫文」 であった。

 

(略)

すなわち本願寺の顕如上人(けんにょしょうにん)がみずから来訪し、太刀一腰・馬一疋・縮羅織(しじらおり)五十端(たん)を進じた。

 

顕如は昨日来訪のあった教如の父である。

 

(略)

そして演能の際には春日太夫らの役者に渡辺長により太刀・金子が遣わされ、金子の総額は 「此の代五拾一貫文」 であった。

 

(略)

ひとまずは曲直瀬道三(まなせ どうざん)邸に入った。

 

道三はもと将軍足利義輝の侍医で、禁裏(きんり)にも参侍した名医である。

(略)

道三も輝元の来訪を喜んで一献を進め、「御供の衆にまで食これあり」 という歓待ぶりを示したのであった。

輝元も道三に銀子百枚、同内儀に銀子三十枚を進じて謝意を表している。

 

(略)

 

日記には 「殿様御進物」 として、先ずは輝元からの進上の品々を記している。それは、

関白様へ    銀子(ぎんす)三千枚折に入る・御太刀一腰惣金具拵・御馬一疋月毛・御鷹五居(すえ)

 

金吾様へ     沈香(じんこう)百両・虎皮十枚・御太刀一腰金覆輪(きんぷくりん)

 

北政所様へ    銀子二百枚・白糸三折

 

というものであった。

(略)

なおこれに引き続いて、そのほかへの進上もなされた。それは輝元より、

 

御局御東殿へ   銀子二十枚

  幸蔵主へ    銀子十枚

 

隆景より

関白様へ      御太刀一腰惣金具拵・銀子五百枚白糸三折二百斤

 

広家より

関白様へ     御太刀一腰惣金具拵・御馬一疋糟毛(かすげ)

というものであった。

 

(略)

 

その御対面の後の食事の時に観世太夫(たゆう)らによる謡がなされ、

関白より御太刀を直に拝領した。

その太刀は 「ゴフとや日本一の御太刀」 で、鞘は金梨子地蒔絵(きんなしじまきえ)で、金具には桐の薹(とう)の彫り物がほどこされていた。

この 「ゴフ」 とは、鎌倉末期の刀工として名高い郷義弘(どうのよしひろ)作の太刀であろうか。

 

(略)

秀吉はさらに輝元を正親町上皇の院御所へと連れて行った。

 

ここで輝元は上皇に拝謁し、御太刀一腰金覆輪・銀子三十枚を進上した。

そして関白の御供をして施薬院まで従った。

 

ここで関白のもとを辞すと 「直様(すぐさま)六宮へ御参」 とあるように、

天皇御前でともに御相伴をした六宮智仁親王の御所に参り、

御太刀一腰金覆輪と御馬代として千疋・銀子一折を進上した。

 

そして 「此の外禁中の衆への御礼物、記し難く候」 とあるから、

この度の参内および叙任に関して世話になった公家や官人にも御礼の意を表していたのであった。

 

(略)

 

幕府から朝廷に献じられる品は、はじめは様々であったが、

義政期頃から太刀と馬に定まり、幕府への進上品目は身分によって差異もあるが、大名クラスのそれは太刀と馬、または太刀・馬代というのが慣例であった。

 

(略)

 

輝元は辰(立つ)の刻(御前八時頃)に宿舎を出て、津田宗及(そうぎゅう)邸にて 「御冠に黒き御装束」 すなわち束帯(そくたい)姿に改め、布衣(ほうい)の御剣役粟屋右京大夫を従えて聚楽第に出仕し、関白へ御太刀金覆輪一腰・鞍・銀子十枚を進上した。

 

(略)

さて、輝元はこの聚楽第における八朔参賀の帰途、大和大納言秀長および近江中納言秀次邸に参上し、それぞれに御太刀一腰金(金覆輪)御馬代千疋(びき)を進上して八朔の御礼を行っている。

(略)

 

すでに八月一日のことだが、八朔御礼に聚楽第へ出仕するために津田宗及の所で冠装束の衣装に改めているときのこと、

 

「美麗なる籠に松虫を入れられ、関白様より殿様へ進められ候。御使いに路次(ろじ)にて御会いにて御請け申さるなり」

 

として、関白よりの使者が美麗な籠に松虫を入れ

輝元のもとに届けてきた。そこで輝元は路次に出て使者と会い、

その虫籠を受け取ったのであった。

(略)

 

関白は大仏からそのまま鷹狩に出かけた。

そして輝元が進上した鷹を、関白は拳に据(す)え、

鳥に向けて放ったところ、みごとに獲物を捕えた。

 

この鷹は、去る七月二十四日に初めて聚楽第に出仕した際に、銀子・太刀・刀・馬とともに進上した五据(すえ)の鷹の一羽であろう。

関白の御機嫌はよく、褒美として輝元にも、まだ巣の中にいる鷹の雛を与えようと、直々に仰せられたというのである。

 

(略)

 

輝元の京都滞在中に、関東の北条氏規が上洛し、その聚楽第出仕の御対面の儀に列席するということがあった。

(略)
御対面の次第は、前野但馬守長康が奏者をつとめ、まず北条氏規より、
北条家よりの進物として太刀一腰金覆輪・御馬十疋・御鷹十一据(すえ)漆桶一を献じ、合わせて氏規自身の御太刀一腰金覆輪・御馬五疋・綿二折を献じた。
 
(略)
 
すなわち、御暇乞に関白様のもとへ出仕し、梨子地蒔絵拵(まきこしら)えの太刀一腰と銀子五十枚を進上した。
関白様は笑顔で喜ばれ、馬一疋を遣わすから馬屋からどれでも好きなものを選んで取るようにとのことであった。
そこで輝元は斑の馬を拝領したというのである。
 
(略)
 
さて、上皇と天皇への御暇乞は、八月二十八日に行われた。
しかしそれは直接の参内によるものではなかった。
(略)
勧修寺邸まで赴き、大納言晴豊を通して御暇乞の御礼をしたのである。
その御礼は、
 
天子様(後陽成天皇)へ、御太刀一腰金覆輪・万疋を御献上
院御所様(正親町上皇)へ、御太刀一腰金覆輪・万疋を御献上
女御様(近衛前久娘)へ、三千疋を御献上
万里小路殿(充房・蔵人頭)へ、御太刀一腰・千疋を信ず
三条殿(参義正親町三条公仲)へ、御太刀一腰・千疋を信ず
頭宰相殿(花山院家雅)へ、御太刀一腰・千疋を遣わす
というものであった。
大名の帰国に際しての、朝廷への暇乞が、このような伝奏による取次ぎの形でなされていたことがわかり、すこぶる興味深い。
 
(略)
石清水八幡宮の鎮座する男山は標高百四十三メートルの、お椀を伏せたような形をした山である。
(略)
輝元主従は山頂に詣で、太刀・刀・神馬を奉納し、宿坊の中ノ坊に休息した。
 
(略)
 
黒田邸に帰ると、「北政所(きたのまんどころ)様より御使いなり」 として、
杉原市右衛門長房が行器(ほかい)に納めた赤飯十荷(か)・酒樽二・肴参折・白鳥二・鯛五十・昆布百把(ぱ)という沢山の品物を届けてきた。
 
輝元の大坂逗留にあたっての差し入れであろうか。
秀吉夫人からの心遣いである。
 
そこで使者へは返礼として小袖一重・太刀一腰・三百疋を遣わし、樽などの持手には千疋を与えたのであった。
 
(略)
 
大坂城内の茶室は、世に知られる三畳敷の黄金の茶室のほかに、山里の茶屋と呼ばれる数寄屋があった。
(略)
これは昼の茶湯のもてなしに対する御礼であろうが、その際 「山里の御茶屋掃除衆八人」 に対しても二百疋ずつ、総額十六貫文を遣わしたのであった。
 
(略)
 
こうして尼崎・西宮周辺を散策した後、再び船出して兵庫に着いたのは亥の刻(午後十時頃)であった。
この日の宿は、上洛の際にも泊まった正直屋である。
宿には増田六衛門が一献の用意をして待っていた。
この六衛門は、上洛の折に兵庫で出迎えた豊臣家の下代官である。
そこで輝元は六衛門に脇差を与え、正直家にも二千疋を遣わして謝意を表したのであった。
 
                                                 
       
~まだまだ面白い所があります、たとえば秀吉に面会した時に誰がどこに座っていたかなどが図入りで説明(座配図)されていたり等々、でもそれらを全部紹介していたら大変なことになるので、・・・・・・この辺で~
 
 
~四月十日に 「戦国大名はヤクザと同じ」 というのを紹介しましたが
ここに出てくる大名達とは全く違っているのが面白いと思いました~
 
 
花びらが大分散ってました
4月10日 靖国神社(東京・千代田区)にて撮影