少々奇妙に思われるのは、刑を受けたのちにも遷が、帝の図書・学問関係の秘書長みたいな、かなり大事な役職を与えられつづけていたことだが、ともかく父の遺言遂行には不自由のない地位が確保されていた。
全130巻中の本紀もよいが私は一時期、列伝をとくに好んだ。
実際、拙著『本』(岩波ジュニア新書、2004年刊)の中で私は、ヘロトドスより面白いと書いている。
が、そののち、ちょっと待てよという気になった。
司馬遷の作品 本紀にも列伝にも何かひとつ欠けていると気づいたからである。
いったい何が? 再読三読するうち、思い当たったのが、とっくに知っていた筈の、彼の役職のこと。
父このかたの 「役人の家系」。 思い刑に処せられたのちも剥奪(はくだつ)されなかった官職。
当時、「歴史を書く」 とは専制君主制のもとでは自由どころではなかった(第二次世界大戦前後の日本国でも自由ではなかった)。
国の方針から逸れないように、どれほどの遠い過去の出来ごとや人物史を書くさいにもくれぐれも気を配らねばならなかった。
司馬遷が意図的に筆を曲げたなどと大それたことを言うつもりはさらさらない。
しかし本紀はもちろん列伝にとりあげられているひとりひとりの人物の人選からして、よほど注意したにちがいなく、この注意こそは、父の遺言と自分の意思目的とを実現させるために、不可欠の一大事だったのだ。
「ああ、自由な筆じゃなかったのだ」。
これにくらべて、ヘロドトスや、トゥキュディデスは、だれからも 「書け」 と言われず、だれの統制も受けず、ひとえに 「書きたいから書いた」。
人間史上初のデモクラシィを打ちたてた自由都市国家群のギリシャの一自由市民の身にふさわしく自発的に 「書いた」 東の遷と西の二人のちがいはここにある。 ここに出て来る。
アジアとギリシャとのこのちがいになぜ早く気づかなかったのだろうと、
自分の不甲斐(ふがい)なさをかこちながら、
再びひらいたヘロドトスの面白さ。
どう面白いかと言えば、何をさておき、のびのびしている。
司馬遷の方は面白いけれど、「官吏・役人としての筆」 がかもし出す雰囲気は、ちようど、きちんとつくられた公の学校の教室の中で、帝や官にさからうことのない内容の 「国史」 を、ひとりの天才的な教師が、あくまでも公の枠組みと思想を守りながらもかぎられた範囲での自由をせいいっぱい使って、自分自身でしらべたあげくの厖大な資料によってたくみに 「料理した」 面白さと言ったら、それほど的(まと)はずれでもないだろう。
「歴史随想パッチワーク」
犬養道子(いぬかい・みちこ 1921~)
中央公論社 2008年3月発行・より
3月22日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影