司馬さんが書いた 『歴史の中の日本』 という本に収録されている話ですが、戦争中、戦車一連隊に所属する下級将校であった司馬さんは、昭和二十(一九四五)年の初夏、満州から本土決戦のために栃木県佐野に移動しました。
そのときの話を書いています。
ある日、大本営の少佐参謀が彼の部隊に来たのですが、
同じ連隊のある将校がこの参謀に質問します。
「我々の連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるだろう、当然、街道の交通混雑が予想される。
こういう場合、わが八十輌の中戦車は、
戦場到着までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」
これに対して、この大本営の少佐参謀が、ごく当たり前な表情で、
「轢(ひ)き殺してゆく」
と答えたというのです。
司馬さんは、
「私は、その現場にいた。私も四輌の中戦車だったから、この回答を、直接、肌身に感ぜざるを得ない立場にあった。(やめた)と思った。
そのときは故障さ、と決意し、故障した場所で敵と戦おうと思った。
日本人のために戦っているはずの軍隊が、味方を轢き殺すという論理はどこからうまれるのか」
と述べているのです。
この一連の話は、耳にされた方も多いのではないでしょうか。
菅直人元首相などもこの逸話を引用していましたし、戦後七十周年企画として 『毎日新聞』 が特集した 『数字は証言する~データで見る太平洋戦争』 (http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data6.html)も、この司馬さんの証言を引用しています。
しかし、実はこの話はあとで 「かなり根拠が曖昧(あいまい)」 だったことが明らかになっているのです。これについては、歴史家の秦郁彦氏が、戦争中に、やはり戦車連隊の中隊長であり、戦後は防衛庁の戦史編纂官となった近藤新治氏(元陸軍大尉)との対談で明らかにしています(『増刊・歴史と人物』中央公論社、昭和五十八年八月号収録)。
近藤 あの話は、われわれの間で大問題になったんです。
司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当たったけれど、
だれもこの話を聞いていない。
ひとりぐらい覚えていてもいいはずなのですがね。
秦 もっとも、無理に住民の中に突っ込めば、
大八車なんかもあるし、
戦車のキャタピラの方が壊れてしまうのではないか
という意見もありますがね。
近藤 当時、戦車隊が進出するのには、
夜間、四なり五キロの時速で行くから、
人を轢くなどということはまずできなかったですよ。
夜光虫をビンに入れて背中にかけた目印の兵が
戦車の前に立ち
それの誘導でノロノロ進むのです。
轢き殺して行けと言ったとしたら、その人は、
戦車隊のことがよく分かっていないのではないですか。
秦 夜光虫とはおどろいた。
近藤 これが、まっすぐ見たら見えないんです。
少し横から見ると見える、ですからそういう訓練もしましたね。
実は、私の友人であるジャーナリストの丸谷元人(まるたに はじめ)氏も、学生時代に戦史関連の国際会議で近藤新治氏の通訳をしたことがあり、その会議の休憩時間に、ご本人に直接この逸話を聞いたそうです。
そのとき近藤氏は、
「あの発言をしたという少佐参謀は、私の士官学校の先輩で、とても朴訥(ぼくとつ)な方であり、絶対にそんなことを言う人ではなかった」
と、おっしゃったそうです。そして、以下にように話されたと言います。
「その後、『朝日ジャーナル』 か何かが、この問題を取り上げて、私と司馬さんの対談をセッテングしてくれました。そこで私は司馬さんに向かって、
『なんであんなことを言うのか。あの参謀は私の先輩だし、あなたの周りにいた将校も、誰ひとりそんな発言は聞いていない』 と言ったんです。
そうしたら司馬さんはニヤリと笑って、『近藤先生は学者ですなあ』 とだけ言ったんですよ。
『私は小説家だから』 という意味なのかもしれませんが、結局その対談企画はなぜかボツになってしまって、出版されることはありませんでした」
「やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人」
ケント・ギルバート(Kent Sidney Gilbert 1952~)
株式会社PHP研究所 2016年2月発行・より
光が丘 夏の雲公園つばき園(東京・練馬)にて3月17日撮影