比叡山焼き討ちの正当性 | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 
 
 
『日本史 汚名返上 「悪人」 たちの真実
井沢元彦  和田秀樹
株式会社 光文社 2014年5月発行・より
 
 
<和田>    比叡山延暦寺と言えば現在まで千二百年以上の歴史を持つ仏教寺院で、ここからは親鸞(しんらん)や日蓮(にちれん)といった僧を排出した、日本仏教の母なる地ですよね。
 
 
 
そこに信長は三万の兵を率いて襲撃し、僧のみならず女子供まで殺したというのはねえ。
 
 
 
<井沢>   これが一番わかりやすいんで比叡山を例に挙げますけれど、信長嫌いは 「信長は比叡山を襲って寺を焼き払い、籠(こも)っていた無防備な僧と女子供を襲って首を切った」 という人が多いんですが、
まずこの前提が違うんですね。
 
 
 
ここはとても重要なポイントなんですが、信長以前と以後で、宗教勢力は百八十度変貌したことがあります。
 
 
 
僧兵という言葉を聞いたことがあると思うんですが。
 
 
 
<和田>    ええ武蔵坊弁慶とか、僧侶が寺を守るために、兵士として戦ったんですよね。
 
 
 
<井沢>    そこなんですね。まず、信長以前の宗教勢力は武装していました。これはなぜかというと、それまで宗教勢力というのは時の政権から弾圧を受けたり、他の宗教勢力と対立したりと、自分の身は自分で守らなければならなかったんです。
 
 
 
一番有名な例で言うと、これは信長が生まれて二年ほど後になりますが、
「天文法華(てんぶんほっけ)の乱」 というのがあります。
 
 
これは当時、日蓮宗と対立していた延暦寺が、京都に僧兵を侵入させ、日蓮宗の二十一の寺を焼き払いました。
 
 
 
この事件で、女子供を含む三千から一万と言われる門徒が殺害されたといわれています。
 
 
 
<和田>    人を殺してはいけないという仏教同士の戦いで、それほど多くの門徒が殺された、殺したのは僧兵ですか。
 
 
 
<井沢>   ええ。この時代の宗教勢力というのは、現代のお寺さんと違いまして、武装していたし、強大な勢力でして、戦国大名のようなものだったんです。
 
 
実際、比叡山はこの戦国の時代に中立を保つのだはなく、浅井・朝倉軍に加担して信長とは敵対化していたわけです。
 
 
<和田>  信長は宗教勢力に対して、中立を望んでいたんですか。
 
 
<井沢>   はい。宗教勢力の政治介入を悪(あ)しきものとしていました。信長はこの比叡山に対して、「本来中立であるべき宗教勢力が、武家に加担するとは何事か。すぐに止(や)めないと焼き討ちするぞ」 と警告も発しているんです。
 
 
 
とはいえ現実には敵対化し、殺(や)るか殺られるかの関係になってしまった。
 
 
 
比叡山にしてみれば 「そんなことできるか」 と思っていたでしょうけどね。
 
(略)
 
<井沢>   信長以前の文献である、南北朝の内乱について記した戦記物語の 『太平記(たいへいき)』の注釈書にも、政治闘争に参加したり、宗教戦争を繰り返す僧侶に対して 
「あいつらは坊主だろう、人を殺してはいけないとお経に書いてあるじゃないか」 と宗教勢力の行いに対する批判が書いてあるんですね。
 
 
 
この当たり前のことを実現し、宗教勢力を政治闘争、権力闘争の場から引きずりおろしたのが信長で、そのきっかけとなったのが 「比叡山焼き討ち」 なんです。
 
 
 
塩野七海(しおの ななみ)さんは、信長が現代の日本に与えた最大の贈り物は宗教テロの根絶、別の言葉にすれば政教分離を実現したことだと書いています。
 
 
 
昨年11月22日 青葉台公園(埼玉・朝霞)にて撮影