「日本の感性が世界を変える 言語生態学的文明論」
鈴木孝夫 (すずき たかお 1926~)
株式会社 新潮社 2014年9月発行・より
ところでだいぶ前のことですが、私はアメリカのイリノイ大学で一年ばかり日本語を教えていたことがあります。
その際に、日本語の上級のクラスでは日本人教師なら誰もが必ず取り上げる次の松尾芭蕉の句
閑(しづか)さや 岩にしみ入る 蝉(せみ)の声
を使って、日本人の自然観を説明しようとしたとき、米国の学生たちが全くと言っていいほど、およそ虫というものすべてに対して、無知無関心なのだということを知って大変に驚いたことがありました。
私がこの歌にある蝉は、英語のシケイダ、またはシカーダ[cicada]のことだといっても、そんな言葉は知らないし聞いたこともないというのです。
でも日本では小さな英和辞典や和英辞典にも、cicada が蝉だとちゃんと出ているのにと、
私が黒板に下手な蝉の絵を描いたり、物まねよろしく鳴き声の真似をしたりしたところ、
一人の学生がもしかしたらロウカスト(locust)のことではないかと言い、
他の者もそれなら知っていると言い出したのです。
そこで私が、呼び方はいろいろかもしれないが、
とにかくこの町のいたるところで庭木や屋根の上のアンテナなどでも蝉がよく鳴いているよといっても、
学生たちの誰一人として、それは見たことも聞いたことも無いと言うので驚いたわけです。
(略)
ちょっと横道にそれますが、蝉がちゃんと身の周りに沢山いるのに、
見たことも聞いたこともないというこのような米国の学生たちの反応は、
まさに文化人類学者が指摘するところの、
<人間は自分たちのあまり必要のないもの、重要だと思っていないものは、たとえ身近にあってもその存在に気づかず、それを表す言葉もないのが普通だ>
という、人間の認識の仕組みが持つ文化的選択性(偏り)の、面白い一つの例とすることが出来るのです。
光が丘公園の欅(東京・練馬)にて11月5日撮影