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「英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄」
ヘンリー・S・ストークス(1938~)
祥伝社 2013年12月発行・より
白洲次郎は1919(大正8)年に、神戸一中を卒業して、ケンブリッジ大学に留学した。
卒業後は、父の白洲商店が倒産したため、帰国して英字新聞 「ジャパン・アドバイザー」 の記者となった。
その後、1937(昭和12)年に、日本食糧工業(後の日本水産)の取締役となった。
海外に出ることが多く、吉田茂駐英大使の面識を得て、大使館を 「定宿」 とした。
戦争末期に召集されたが免(まぬが)れ、吉田茂を中心とする反戦グループに加わった。
1945(昭和20)年、吉田外相の懇願で、終戦連絡中央事務局の参与に就任しGHQに、 「従順ならざる唯一の日本人」 と言わしめたと、自慢していた。
(略)
1954(昭和29)年9月まで外務省顧問を務め、その後は実業界に復帰し、東北電力会長に就任した。
東北電力退任後は、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現USB)の役員、顧問を歴任した。
「俺はボランティアではない」 というのが口癖で、金儲けに眼がなく、
英国企業の日本進出を手助けし、成約金の5パーセントをロンドンの口座に振り込ませていた。
生涯、豪奢(ごうしゃ)な生活をした背景に、こうした手数料収入があった。
私は白洲が傲慢で威張ってばかりいたから、好きにはなれなかった。
自己顕示欲が強くて、いつも自慢話を言いふらしていた。
(略)
次郎は映画俳優のような男前で、流暢(りゅうちょう)なイギリス英語を、反(そ)り返って、まるで人を見下すように話した。
自分が関心を持たない人物がそばに来ると、無視するようにそっぽを向いて、無礼な態度をとった。
それでも、イギリス人の友人たちが、次郎の博覧強記ぶりは驚嘆に値すると、語っていた。
次郎は内幸町(うちさいわいちょう)にあったクリストファー・パーヴィスのオフィスにやってきた。
イギリスの友人としてクリストファーとの関係を大切にしていたが、ソファに腰を掛けると、クリストファーの仕事にお構いなく、終始居座った。
次郎は軽井沢のゴルフ倶楽部の会長で、社交の利用していた。
そこでも傲慢な態度をとっていた。ある日、クリストファーが約束の時間に五分遅れて倶楽部に着くと、次郎は体を震わせて怒った。
だが、誰も次郎を批判できず、仕方ないと受け入れていた。
(略)
次郎は金遺いが荒かった。そこが、彼の人生の悲劇だった。
そこで、いつも国際ビジネスを漁(あさ)っていた。外国の関係者のあいだで、金(かね)に穢(きたな)いというもっぱらの評判だった。
<田中角栄とのエピソード 人差し指>
昔のことなので、誰が、何処に書いていたのか忘れましたが、軽井沢のゴルフ倶楽部で田中角栄がカレーを"スプーン"で食べていたら 白洲は 「カレーはフォークで食べるもんだ」 と角栄を𠮟りとばしたそうです。
10月18日 中央公園(埼玉・朝霞)にて撮影