賭事の好きな人に金を貸してはいけないが、悪い人ではない。
孔子がぼんやりしている弟子に向かって、「そんな暇があったら博打でもやれ」と言ったという。
また、清水次郎長クラスの親分は、博打で金をすって助けを求めて来た者は援助してやり、女で金をすった者には援助しなかったという話がある。
女のところで寝そべっていたヤツはどうしようもない。
心が締まっていないから、女のところでだらだらして、金がなくなる。
しかも、その女に正当な額を払ったのなら、それほどのロスはないだろうに、すっからかんにされてしまったということは、要は女に騙されて金を取られているわけだ。それは単なるアホである。
一方、博打はいざというときに役立ちそうな能力が求められる遊戯だ。
たとえば、決断がなければ博打はできない。それから、流れを読むためには頭の働きが活発でなければならない。
したがって、決断力、思考能力、判断力など、いろいろな力を磨く訓練にもなり得る。
博打のほうは、頭や心を使ってお金をなくしたとも言える。
女のところで三日間居続けて、頭の働きが活発になったということはあり得ない。
そういう点からすれば、賭け事の好きな人は使い道がある。
ただし、博打の好きな人はどこかトゲがあるし、あまり従順とは言えないことが多い。
使う側に多少の器量が必要である。
「人間の見分け方」
谷沢永一(たにざわ えいいち 1929~2011)
株式会社エイチアンドアイ2005年7月発行・より
光が丘公園(東京・練馬)1月5日撮影