「おせい&(と)カモカの昭和愛惜」
田辺聖子(たなべ せいこ 1928~)
文芸春秋社2006年10月発行・より
「昭和愛惜」を「愛憎」と間違えたので直しました12月26日
45頁~ 終戦後、家は空襲で焼け、父が死に、母ときょうだい三人が残されて窮乏生活を送ったときに、
<ホラ、・・・小っちゃいとき、堂(どう)ビルの階上(うえ)のレストランで御飯たべて、お渡りを見たこと、あったわねえ>
というのが、私たちのたのしい話題になった。停電つづきで、すいとんや、雑穀入りのお粥(かゆ)をローソクの灯(あかり)で食べながら、
<あたし、何着てた?そのとき>
<長いたもとの絽(ろ)の友禅に三尺帯。夏祭りは絽の友禅、と昔からきまったもの>
<ああ、水色と桃色の。おぼえてる>
と言い合ったりして、気分が明るくなるのだった。たしかにそういう思い出は、人間を支えてくれる。
いまは逼迫(ひっぱく)しているが、これは借りの姿で、きっとまた、いいこともある、という気になるのであった。
子供のころの贅沢の記憶が、のちのちまで人間が生きる上の、支えになるというのは、こういうことなのであろうか。
しかし私はこの頃、こう考えるようになった。
贅沢の記憶なのではない。
愛された、という自信の記憶ではないかと。
そんなにまでしてくれたという、オトナたちの愛を、人は大きくなっても心の支えにしているのではなかろうか。
子供のときに味わった後悔や苦悩や挫折感などは、オトナになってからの人生航路のある種の道しるべになるが、「愛された記憶」は、人を支える。
<私はこんなに愛されたのだ>
という記憶が、のちに人を救う。
120頁~ 子供は口ではいろんなことをいうし、可愛げのない反応もみせる。
しかし、人の愛情はそっくり心の乾板(かんぱん)にうつしとっていて、何十年も忘れないものなのである。
(私はこういうようなことを、あの人にしてもらった)
と思うことが、生きてゆくバネになる。
何でもない、ごく些細(ささい)なことを嬉しく思うことがある。
それはまた反対に、大人の悪意や嘲弄(ちょうろう)や冷淡にも敏感であることで、
それを思うと、子供をとりまく環境をおろそかに考えてはいけない。
子供を可愛がって、「オマエのことは、みんなが好きなんだよ」というのをわからせてやりたい気がする。
大きくなってから、「みんなが愛してくれていた」という記憶を心の支えに、やっと辛(からい)人生を渡ってゆく、
そういうことが、その子の生涯におこるかもしれないのだから・・・・
紅葉 光が丘公園(東京・練馬)12月18日撮影