1泊2日 燕三条・長岡一人旅
初日のランチは燕市の杭州飯店で新潟5大ラーメンのひとつ燕背油ラーメンをいただきました。
そして三条市にも新潟5大ラーメンのひとつ三条カレーラーメンというものがあります。
三条カレーラーメンもいただいてみよ~う。
が、ちょっと間を開けないとお腹がきついかな?
ということで、三条カレーラーメンをいただく前に向かったのが信濃川大河津資料館です。
新潟県を流れる信濃川(長野県側では千曲川)
日本一長い川という知識しかなかったです。
今回、燕三条と長岡を旅することになりGoogleマップを見ていたら大河津分水路というのを見つけました。
分水路とは・・・
河川の途中から新しく人工的に開削し、直接海または他の河川に放流する水路のことです。
地図を見ると信濃川が途中で二手に分かれています。
地図右(東)に向かって流れているのが信濃川で、日本海に向かって流れているのが大河津分水路です。
この大河津分水路は信濃川の洪水を日本海に流すための人工の川なんだとか。
こちらの資料館で大河津分水路の歴史と役割を学ぼうとやってきました。
1909年(明治42年)から工事が始まり、1922年(大正11年)に通水した大河津分水路は昨年に通水100周年を迎えました。
入館料は無料です。
映像やパネル資料などを見ていきました。
かつて暴れ川とも呼ばれ、多くの水害をもたらし流域住民を苦しめてきた信濃川。
信濃川流域はもともと水はけが悪い湿地で、洪水がひとたび起これば浸水が続きました。
今でこそ新潟は米の産地として有名ですが、この地域でとれるお米は「鳥またぎ米」と呼ばれ、鳥さえもまたいで避けるほど味が悪かったそうです。
江戸時代から何度も治水構想が持ち上がっていて、明治の初めに工事が始まりましたが、途中で工事が中止に。
そんな中、1896年(明治29)年7月に大水害が発生しました。
横田切れです。
現在の燕市横田で堤防が決壊したのをはじめとして多くの堤防が決壊した大水害です。
長岡から新潟のほぼ全域にわたる広大な範囲が浸水する最悪な水害となりました。
これをきっかけに大河津分水路を求める声が一段と強まりました。
あの山を切り開き、日本海に洪水を流せれば・・・
と、ついに1911年(明治42年)に大河津分水路の工事が始まりました。
山を切り開くのですから大変な工事です。
当時、「東洋一の大工事」と呼ばれたそうです。
そして1922年(大正11年)に大河津分水路が完成し通水したのでした。
これにより越後平野に矛先を向けていた洪水の流れを変えることに成功。
大河津分水路が通水してから信濃川は一度も決壊していないというからすごいです。
まさに新潟の守護神です。
農地は劇的に改善され米の収穫量が3倍に増加。
大河津分水建設以前は洪水を恐れ、信越線は東側の地盤が高いところ、国道8号は堤防の上につくられていました。
それが・・・
大河津分水路建設以降は、それまで避けられていた平野部に上越新幹線や北陸自動車道が建設されることになり新潟県内の交通網が整備されていきました。
新潟を発展させたのは田中角栄元首相と思っていましたが、大河津分水路と先人たちの苦労と功績があってこその新幹線や高速道路だったのですね。
次に大河津分水路の仕組みについてです。
信濃川下流域が洪水の時は信濃川の洗堰を閉じて可動堰から大河津分水路に流し
信濃川が渇水の時は可動堰を調節して、信濃川へ水を流すようです。
最後に資料館最上階の展望室へ。
もう少し高い所から見たかったけど、信濃川と大河津分水路が見渡せました。
資料館から100mほどの所には大河津分水路の旧洗堰もありました。
1922年(大正11年)に大河津分水が通水した時の洗堰で、2000年(平成12年)まで現役だった洗堰で、現在は国の登録有形文化財に指定されています。
さらに300mほど先には現在の洗堰があったのですが、行っておらず(行けばよかったね)
なのでGoogleマップを貼り付けておきます。
可動堰の方は新旧を見てきました。
1931年(昭和6年)から2011年(平成13年)まで稼働していた可動堰です。
現役の時は10門あったそうですが、3門だけ残っていました。
後ろを振り返ると現在の可動堰が見えます(ちょっと遠目だけど)
決壊しなくなった信濃川
日本を代表する米どころとなった越後平野
越後平野を縦貫する新幹線や高速道路
大河津分水路がもたらした100年の恵みがよくわかり勉強になった資料館でした。
お腹がちょっと空いてきたところで三条カレーラーメンをいただこうと三条市へ向かいました。
つづく