1泊2日 岩手県南一人旅 初日
世界遺産の無量光院跡から高館義経堂(たかだちぎけいどう)に向かいました。
▲駐車場は無料です。
駐車場から坂道を2分程のぼって行くと到着。
拝観料は300円
「源義経最後の地」と書いてあります。
そう、ここは源義経が最後を遂げた地です。
平家との戦いで大活躍した義経でしたが、兄源頼朝の怒りをかってしまいます。
義経は戦の天才でしたが、頼朝の許可なく後白河法皇から官位を受けたり、身勝手な行動も多く頼朝はそれを許せなかったのです。
頼朝が義経の才能と力を恐れたということもあるでしょう。
頼朝の怒りをかってしまった義経は朝敵とみなされ、頼朝に追われる身となりました。
追われる義経が逃げてきたのが、幼い時に育った平泉でした。
平泉では幼少期に庇護を受けた藤原秀衡が健在で、義経は秀衡に守られ、この地高館に居館を与えられました。
ところが、秀衡が亡くなると状況は一変。
秀衡の後を継いだ藤原泰衡は「義経を追討せよ」という頼朝の圧力に負けて義経を急襲。
500騎の兵をもって10数騎の義経を襲いました(衣川の戦い)
戦の天才義経といえども500vs10では勝ち目はありません。
義経は覚悟を決め、正妻の郷御前と4歳の女子を自ら手をかけます。
その後、義経も自害し、この地で31才という若さでこの世を去りました。
階段をのぼって行くと左右二手に分かれます。
左が義経堂で右が芭蕉鵜の句碑です。
まずは義経堂から
1683年(天和3年)仙台藩主第4代の伊達綱村が義経を偲んで建てたといわれます。
中には義経の木像が安置。
髭をたくわえ凛々しい義経像
私が持っていたイメージとちょっと違う印象を受けました。
義経堂の左手には源義経主従供養塔が建っています。
この地で31才という短い生涯を終えた源義経
奥州藤原文化を築き上げた藤原秀衡
義経に忠誠を誓い戦い抜いた武蔵坊弁慶
3人の800年御遠忌を期して昭和61年に建てられた供養塔です。
義経が最後を遂げる際に、敵の前に立ちふさがったのが弁慶でした。
全身に矢を受けながらも、義経が最期を遂げるまで敵を一歩も入れずに耐えた弁慶
この時、立ったまま亡くなった弁慶を「弁慶の立ち往生」と呼んでいます。
弁慶の墓は、この後に訪れた中尊寺の参道の入口にありました。
続いて先ほどの分岐に戻りまして・・・
芭蕉の句碑へ
夏草や
兵どもが
夢の跡
義経が最期を遂げてから500年が経った1689年
この地を訪れた松尾芭蕉が詠んだ句です。
句中の「兵ども」とは、源義経や弁慶、そして平泉で栄華を極めた奥州藤原氏を指しています。
「夢の跡」とは、今はもう何もない様子。
戦の天才と呼ばれた義経や、栄華を極めた藤原氏の面影はなく、今はその痕跡も何もない。
今はただ夏草が生い茂るのみであり、全てが夢のようであると人の世の儚さを詠んだ句です。
芭蕉の目に儚いと映った景色でしょうか。
平泉の肥沃な地にゆっくりと流れる北上川
義経最後の地、芭蕉が詠んだ有名な句、そしてこの景色
高館義経堂は壮大な歴史ロマンを感じる場所でした。
つづく