義経最後の地「高館義経堂」 1泊2日 岩手県南一人旅 その6 | 1泊2日一人旅

1泊2日一人旅

休みは取れても2日。
だから旅はいつも1泊2日。
1泊2日でも日本全国行ってみたい。
そんな1泊2日一人旅の記録です。

1泊2日 岩手県南一人旅 初日

 

 

世界遺産の無量光院跡から高館義経堂(たかだちぎけいどう)に向かいました。

 

▲駐車場は無料です。

 

駐車場から坂道を2分程のぼって行くと到着。

 

 

拝観料は300円

 

 

「源義経最後の地」と書いてあります。

 

 

そう、ここは源義経が最後を遂げた地です。

 

 

平家との戦いで大活躍した義経でしたが、兄源頼朝の怒りをかってしまいます。

 

義経は戦の天才でしたが、頼朝の許可なく後白河法皇から官位を受けたり、身勝手な行動も多く頼朝はそれを許せなかったのです。

 

頼朝が義経の才能と力を恐れたということもあるでしょう。

 

頼朝の怒りをかってしまった義経は朝敵とみなされ、頼朝に追われる身となりました。

 

 

追われる義経が逃げてきたのが、幼い時に育った平泉でした。

 

平泉では幼少期に庇護を受けた藤原秀衡が健在で、義経は秀衡に守られ、この地高館に居館を与えられました。

 

 

ところが、秀衡が亡くなると状況は一変。

 

秀衡の後を継いだ藤原泰衡は「義経を追討せよ」という頼朝の圧力に負けて義経を急襲。

 

500騎の兵をもって10数騎の義経を襲いました(衣川の戦い)

 

 

戦の天才義経といえども500vs10では勝ち目はありません。

 

義経は覚悟を決め、正妻の郷御前と4歳の女子を自ら手をかけます。

 

その後、義経も自害し、この地で31才という若さでこの世を去りました。

 

 

 

階段をのぼって行くと左右二手に分かれます。

 

 

左が義経堂で右が芭蕉鵜の句碑です。

 

 

まずは義経堂から

 

 

1683年(天和3年)仙台藩主第4代の伊達綱村が義経を偲んで建てたといわれます。

 

中には義経の木像が安置。

 

 

髭をたくわえ凛々しい義経像

 

私が持っていたイメージとちょっと違う印象を受けました。

 

 

義経堂の左手には源義経主従供養塔が建っています。

 

 

この地で31才という短い生涯を終えた源義経

 

奥州藤原文化を築き上げた藤原秀衡

 

義経に忠誠を誓い戦い抜いた武蔵坊弁慶

 

3人の800年御遠忌を期して昭和61年に建てられた供養塔です。

 

 

義経が最後を遂げる際に、敵の前に立ちふさがったのが弁慶でした。

 

全身に矢を受けながらも、義経が最期を遂げるまで敵を一歩も入れずに耐えた弁慶

 

この時、立ったまま亡くなった弁慶を「弁慶の立ち往生」と呼んでいます。

 

 

弁慶の墓は、この後に訪れた中尊寺の参道の入口にありました。

 

 

 

 

続いて先ほどの分岐に戻りまして・・・

 

 

芭蕉の句碑へ

 

 

 

夏草や

 

兵どもが

 

夢の跡

 

 

義経が最期を遂げてから500年が経った1689年

 

この地を訪れた松尾芭蕉が詠んだ句です。

 

 

句中の「兵ども」とは、源義経や弁慶、そして平泉で栄華を極めた奥州藤原氏を指しています。

 

「夢の跡」とは、今はもう何もない様子。

 

 

戦の天才と呼ばれた義経や、栄華を極めた藤原氏の面影はなく、今はその痕跡も何もない。

 

今はただ夏草が生い茂るのみであり、全てが夢のようであると人の世の儚さを詠んだ句です。

 

 

芭蕉の目に儚いと映った景色でしょうか。

 

 

平泉の肥沃な地にゆっくりと流れる北上川

 

 

義経最後の地、芭蕉が詠んだ有名な句、そしてこの景色

 

高館義経堂は壮大な歴史ロマンを感じる場所でした。

 

つづく