1泊2日 オロロンライン・オホーツクライン一人旅 初日
稚内公園で記念碑を中心に散策してきましたが、「南極観測樺太犬訓練記念碑」の向こうにそびえる開基百年記念塔に向かいました。
稚内公園の丘陵上の海抜170メートルの地点に建つ高さ80mの開基百年記念塔
大きい~
下から見上げると大迫力です。
私の影が写っているけど、ヨガをしているわけではありません。
リアルタイム更新の時に女性読者から「影も含めて素敵です」とコメントいただきました。
ありがとうございます。
調子に乗ってもうひとつ影
写真を貼りつけている今、気づいたけど・・・
赤い展望台のようなのが見えますね。
行けばよかった~
行かずに、すぐに後ろを振り向いて開基百年記念塔に入場しておりました。
その時は見逃していたり、気づかなかったのを写真を貼りつける時に気づくことが多い私です。
視野が狭いのかな?
入場料は400円
ポストカードをいただきました。
ここから花火を見たら最高だろうな。
宗谷岬の石やホタテの貝殻のプレゼントもありました。
そういえば・・・
6年前に宗谷岬近くの日本最北のガソリンスタンドで給油した時に「日本最北端給油証明書」と一緒にホタテの貝殻をもらったのを思い出しました。
探したけど、出てこなかった。
開基百年記念塔の基部となる1階2階は稚内市や樺太などの郷土資料などを展示する「稚内市北方記念館」になっています。
間宮林蔵のお出迎え
「間宮海峡」を発見して樺太が島であることを確認し、世界地図にその名を留めた間宮林蔵に関するたくさんの展示がありました。
世界地図に名を残した唯一の日本人です。
ただ今の時刻は16時32分
樺太とは2時間の時差があるようです。
1905年(明治38年)日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太が日本領となりました。
樺太に鉄道路線が整備され、稚内と樺太の大泊を結ぶ稚泊連絡船や稚内と樺太の本斗を結ぶ稚斗航路が運航されました。
連絡船の桟橋から稚内桟橋駅までの乗り換え通路として(防波堤としての役割も)建設されたのが北防波堤ドームでした。
こちらは樺太の鉄道の模型コーナー
終戦当時、約40万人の日本人が樺太で暮らしていました。
ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して南樺太に侵攻。
樺太で暮らしてた島民は北海道方面へ緊急疎開することになりました。
その時に起きた悲劇が前回の記事で紹介した「九人の乙女の自決」でした。
ソ連軍が侵攻してきた真岡の真岡郵便局には女性電話交換手たちが宿直していました。
島民の緊急疎開が始まりましたが、疎開に応じず郵便局にとどまって島民のために通信を守り続けることを決意した彼女たち。
ソ連軍の攻撃は激しさ増し、戦火に巻きこまれる真岡郵便局。
電話交換室にも弾丸が飛び込んでくる中、孤立した彼女たちは自決することを決意。
「皆さん これが最後です さようなら さようなら」
と言葉を残し青酸カリを服毒して命を絶ちました。
当時の電話交換機が展示されていました。
九人の乙女の悲劇に胸が痛くなる思いに。
「北のひめゆり」とも呼ばれているそうですが、もっと多くの人に知っていただきたいと思います。
大韓航空機撃墜事件に関する展示もありました。
民間機である大韓航空のボーイング747がソ連軍戦闘機に撃墜され乗員乗客269人全員(うち日本人28人)が死亡した事件です。
当時、小学生でしたが大韓航空機撃墜事件はよく覚えています。
多くの遺品や漂流物が宗谷地方の海岸に流れ着いたそうです。
日ソ中立条約を一方的に破棄しての対日参戦、樺太、千島列島侵攻に三船殉難事件
そして大韓航空機撃墜事件
美しい北の海を哀しみの海に変えてしまったソ連に怒りが込み上げてきます。
稚内市北方記念館の見学を終えるとエレベーターで地上70m海抜240mの展望台へ。
展望台からは360度の眺望が望めます。
まずは東から
東には稚内市街地
南には利尻島
礼文島も
そして西側には
北西に何か島が見えますよ。
利尻でも礼文でもない島
樺太でもありません。
ズ~ム
海馬島(モネロン島)です。
樺太の南西に位置する海馬島(モネロン島)
昭和16年には海馬村が成立し751人の日本人が住んでいたという。


































