1泊2日 薩摩半島一人旅 2日目

 

指宿フェニックスホテルをチェックアウトして知覧特攻平和会館に向かいました。

 

 

入館料は500円

 

入場券と共に三つ折りのパンフレットを渡されました。

 

 

パンフレットにはこう記されていました。

 

「この知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦で、人類史上類ない爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な資料を収集・保存・展示して当時の真情を後世に正しく伝え世界恒久の平和に寄与するのもです。」

 

その通り特攻隊員の写真、遺品、遺書が展示してあるのですが、この先は撮影禁止です。

 

 

なので詳しくはお伝えできませんが、2つ強く印象に残ったことを書いてみます。

 

 

まず、特攻隊員1036名の遺影です。

 

※パンフレットを撮影

 

1036名のうち最も多い439名が知覧から出撃していったという。

 

このように特攻隊員1036名の遺影が掲げられていたのですが、みんないい顔しているのが印象的でした。

 

特攻で散っていった隊員たちの年齢は17歳から32歳(平均年齢21.6歳)

 

笑顔だったり、優しい顔、凛々しい顔、あどけない顔・・・

それぞれでしたが、みんないい顔をしていました。

 

※館外にあった「僕は君のためにこそ死ににいく」の石碑より

 

特攻隊員1036名全員の写真があったのもスゴイと思いました。

 

昭和62年の開館時に6割ほどしかなかったそうですが、平成6年に全員の遺影がそろったそうです。

 

特攻隊員たちの写真を見ているだけで涙があふれてしまいました。

 

 

もうひとつは特攻隊員が出撃前に書いた遺書です。

 

達筆だったり、綺麗な楷書だったりそれぞれでしたが、全体的にみんな字が上手いんです。

 

 

両親への感謝から始まる遺書。

 

家族のため、国のため

自分が日本を守るんだという思いが、ひしひしと伝わってきました。

 

「日本男子の本懐」という言葉をいくつか見かけました。


 

両親に向かって「悲しまないでください」という遺書に、涙がポロポロ・・・

 

写真を撮っていないので一字一句正確ではありませんが

「私が死んでも悲しまないでください。泣かないでください。敵艦が撃沈した知らせを聞いたら、それは私の戦果だと思って喜んでください」(というニュアンスだったと思う)

という遺書が特に印象に残りました。

 

どんな心境だったのか、現在の平和な日本で生きている私には全く想像もつきません。

 

 

特攻隊員の遺影と遺書に涙が止まらなくなりました。

ハンカチは必須です。

 

 

撮影可のコーナーでは昭和20年に甑島近くの海に墜落し、昭和55年に引き揚げられた零戦が展示してありました。

 

 

 

 

 

機体下部に爆弾を吊り下げて出撃していったようです。

 

 

 

零戦だけなくボートでも特攻作戦があったのを初めて知りました。

 

 

「震洋艇」と呼ばれる全長5mほどのボート。

 

このボートに爆薬を積んで敵艦に体当たり攻撃を行ったそうです。

 

 

「米軍が見たカミカゼ」というコーナーもありました。

 

 

 

死力を尽くすカミカゼ特攻隊に対して米軍がどの様に見ていたか、どの様に戦っていたかという米軍側からの資料や写真が興味深かったです。

 

米軍には自らの命を犠牲にしてまで戦うという概念は全くなかったので、日本軍の特攻を「狂信的な自爆戦術」と恐れ驚愕したそうです。

 

 

記念館の外には特攻隊員の宿舎であった「三角兵舎」が復元されていました。

 

 

 

 

全国各地から集まった特攻隊員が、ここで出撃の前夜に酒を汲みかわし、遺書を書いたという宿舎です。

 

 

明日は生きていないかもしれないのに、みんないい顔しています。

 

 

 

この写真を見て、また涙が・・・

 

 

こちらは知覧町護国神社

 

 

 

特攻隊員だけでなく、戊辰戦争から西南戦争、日清・日露戦争の戦没者が祀られています。

 

 

知覧護国神社の先にあるのが特攻平和観音堂

 

 

観音堂には特攻隊員1036名の名簿が安置されています。

 

 

 

 

観音堂にあった「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」記念誌の見本を見てまた涙が・・・

 

 

私が前日に、どこから眺めても美しいと見てきた開聞岳。

 

 

知覧を飛び立った特攻隊員たちは、どんな思いで開聞岳に別れを告げて沖縄へ向かったのだろうか。

 

つづく