参考資料3110 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

《光と闇のドラマ》
「さて、神は創造主であり万物を無(闇)から創造した。天文学的にいえば物質の噴出口であるホワイト・ホールである。「光あれ」とはビッグ・バンである。
 そして、神の創造物と人間を食い潰そうとしている悪魔は、宇宙を元の闇に戻そうとしている。天文学的にいえば物質の吸引口であるブラック・ホールである。
 宇宙ではホワイト・ホールとブラック・ホールがせめぎ合っている。そして、地球では光の子(天使的人間)と闇の子(悪魔的人間)が地球の支配権をめぐってせめぎ合っている。
 そして、両者は別々ではなく関連し合っている。宇宙の活動が人類の活動に反映し、人類の世相が宇宙に反映する。両者一体なのである。なぜなら人間は神の子、宇宙の子なのだから。
 それでいて、実は人間のほうが主体である。人類の世相が宇宙に反映するのであって、その逆ではない。
 人類が生存し続ける限り、この宇宙も存在する。人類が消滅したらこの宇宙もブラック・ホールに呑まれて消滅する。なぜなら人類が神で宇宙を創造し、維持させているのだから。
”光”とは、人類、物質、宇宙を存続させようとしている勢力をあらわし、”光の子”とはそのように考え、行動する人間、すなわち地上天国の実現をめざして努力している天使的人間をあらわしている。
 一方、”闇”とは、この宇宙が始まる以前の無の状態をあらわし、また、神の創造物である宇宙、物質、肉体を消滅させ、宇宙を元の闇に戻そうとする勢力(悪魔)をあらわす。”闇の子”とは、そのように考え、地球、財産を破壊し、お互いに殺し合いをしようとしている悪魔的人間をあらわす。
 光と光の子はお互いに信頼関係で結ばれていて裏切ることはない。だが、闇と闇の子の関係はそうではない。というのは、闇の子は人一倍物質欲、支配欲が強い。それらの欲望が強いから相争うのである。ところが、その行きつく先は無であり闇である。戦争で街を破壊して殺し合い、たった一人生き残ったら誰を支配するというのだろうか。すべてを失って自分も滅びるのである。
 そう、闇の子は闇に騙されているのである。それに気づかないのは欲に目がくらんで真実が見えない己れの愚かさゆえである。
 このように光の系列は愛と信頼と正義で結ばれているのに対し、闇の系列は打算と欺瞞と不義で結ばれている。
 だが、神に対して悪魔がいるのではない。神の中に天使と悪魔がいるのであり、人間の中に光の子と闇の子がいるのである。
 だから、闇の子を排除することはできない。排除するのではなく、闇の子に己れの愚かさを気づかせて光の子へと変えさせることが神の目的である。
 闇の子、悪魔的人間にも、高度技術文明を築くため、という役割があった。それが達成できた時に闇の子の使命は終わる。その時には闇の子は光の子へと変身しなければならない。
 お互いの財産や人権を奪い合わなくても充分高度な文明生活を享受できる、地球の環境を破壊しなくても文明生活は維持できる—――神はそのように地球を造っているはずだ。それができないと思っているのは、自分自身(神=人類)と己れの作品(地球)を信じているからだ。
 現地球人も真理と神の愛、人類愛にめざめて、天使的宇宙人を迎え入れれば、今すぐにでも地球は地上天国になりエデンの園に復帰できる。
 それなのにそれができずに、ただ、悪魔的宇宙人に乗っ取られて奴隷にされてしまうとは、なんと愚かで哀れなことだろうか。
 神の計画と人類の歴史を光と闇の相克のドラマ、光の子と闇の子の闘争というように考える二元論的思考は、確かに単純で割り切った見方である。現実はもっと複雑であるが、現実をよりわかりやすく理解するためには二元論的思考は役に立つ。」
「セザール・ノストラダムスの超時空最終預言(下)」浅利幸彦著より

感想
>さて、神は創造主であり万物を無(闇)から創造した。天文学的にいえば物質の噴出口であるホワイト・ホールである。「光あれ」とはビッグ・バンである。

違う意味で「光」とは「イエス・キリスト」の事である。

「1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は初めに神と共にあった。
3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15 ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。」
「ヨハネによる福音書」第1章1節~15節(口語訳)

因みに、このヨハネは雛形で、真の「終わりの時」には「真理の御霊」(契約の使者)が現れて、洗礼者ヨハネの役目を実行するのだろう。
因みに、ノストラダムスの詩にも「光」が大事な役割を果たす事が述べられている。

3巻94番の詩
De cinq cens ans plus compte l'on tiendra
Celuy qu'estoit l'ornement de son temps:
Puis a un coup grande clarte donrra
Que par ce siecle les rendra tres contens.
五百年以上を経て世人は気づくだろう
その時代の誇りであった彼の存在に
やがて突如として偉大な啓示がもたらされ
その同じ世紀の人びとを大いに満足させるだろう
(山根和郎 訳)

この「啓示」と訳されている原語は「clarté」(ノストラダムスの大事典ではアクサンテギュ(eの上の点)が付いている)で、「clarté」(1 光、明かり,2 透明,清澄,輝き,3 明解さ,明瞭さ,明晰さ,4 [複数で]知識,情報,輝かしい真理)である。
つまり、突如として光が与えられるので、「イエスの再臨」と解釈している。
また、1行目の「気づく」の原文は「tiendra」でこれは「tenir」の3人称単数の未来形。「tenir」は「保つ」などの方が自然だろう。
補足:https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-10394805275.html

>”光”とは、人類、物質、宇宙を存続させようとしている勢力をあらわし、”光の子”とはそのように考え、行動する人間、すなわち地上天国の実現をめざして努力している天使的人間をあらわしている。

基本的には正しいと思うが、そう単純でもないようである。

「7 万軍の主は言われる、「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ。牧者を撃て、その羊は散る。わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める。
8 主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。
9 わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。」
「ゼカリヤ書」第13章7節~9節(口語訳)

「わたしの次に立つ人」とは「真理の御霊」(契約の使者)で、「小さい者ども」とは「選民」の事だと思われる。まぁ、イエスも磔刑にされた訳だし、そういう事だろう。念のため、今度が本番である。

補足
「19 昔あなたは幻をもってあなたの聖徒に告げて言われました、「わたしは勇士に栄冠を授け、民の中から選ばれた者を高くあげた。
20 わたしはわがしもべダビデを得て、これにわが聖なる油をそそいだ。
21 わが手は常に彼と共にあり、わが腕はまた彼を強くする。
22 敵は彼をだますことなく、悪しき者は彼を卑しめることはない。
23 わたしは彼の前にもろもろのあだを打ち滅ぼし、彼を憎む者どもを打ち倒す。
24 わがまことと、わがいつくしみは彼と共にあり、わが名によって彼の角は高くあげられる。
                      (中略)
33 しかし、わたしはわがいつくしみを彼から取り去ることなく、わがまことにそむくことはない。
34 わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
35 わたしはひとたびわが聖によって誓った。わたしはダビデに偽りを言わない。
36 彼の家系はとこしえに続き、彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。
                      (中略)
38 しかしあなたは、あなたの油そそがれた者を捨ててしりぞけ、彼に対して激しく怒られました。
39 あなたはそのしもべとの契約を廃棄し、彼の冠を地になげうって、けがされました。
40 あなたはその城壁をことごとくこわし、そのとりでを荒れすたれさせられました。」
「詩篇」第89篇19節~24節,33節~36節,38節~40節(口語訳)

全てまとめて「神の計画」なのだろう。

>だから、闇の子を排除することはできない。排除するのではなく、闇の子に己れの愚かさを気づかせて光の子へと変えさせることが神の目的である。

昨日も述べたように、人類削減計画の一面もあるのだろう。

「9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。
10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。」
「イザヤ書」第6章9節~10節(口語訳)

生き残れるものは初めから決まっているのかもしれない。

「27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
「ヨハネの黙示録」第21章27節(口語訳)

「21:27しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
「ヨハネの黙示録」第21章27節(新共同訳)

>神の計画と人類の歴史を光と闇の相克のドラマ、光の子と闇の子の闘争というように考える二元論的思考は、確かに単純で割り切った見方である。現実はもっと複雑であるが、現実をよりわかりやすく理解するためには二元論的思考は役に立つ。

「オウム真理教」ではこういう思考法だったようで上祐さんとかこりごりだろうが、「最期の審判」には必要な避けては通れない道である。ただ、上でも述べたようにそう単純な話でもないようだが。

>現地球人も真理と神の愛、人類愛にめざめて、天使的宇宙人を迎え入れれば、今すぐにでも地球は地上天国になりエデンの園に復帰できる。

仲間のために死ねるような人間しか生き残れないだろう。因みに、そういう人間は死者の復活で選ばれると考えている。

「12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。」
「ヨハネによる福音書」第15章12節~17節(口語訳)

おまけ