参考資料2300 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

詩篇 その80
「1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。
2 神は天から人の子を見おろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。
3 彼らは皆そむき、みなひとしく堕落した。善を行う者はない、ひとりもない。
4 悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物食うようにわが民を食らい、また神を呼ぶことをしない。
5 彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れた。神はよこしまな者の骨を散らされるからである。神が彼らを捨てられるので、彼らは恥をこうむるであろう。
6 どうか、シオンからイスラエルの救が出るように。神がその民の繁栄を回復される時、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう。」
旧約聖書「詩篇」第53篇1節~6節

感想
> 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。

「53:02神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」(新共同訳)

私はニーチェの「神は死んだ」というのは真実だと考えている。

「ニーチェが「神は死んだ」といった19世紀後半のヨーロッパ世界は、科学が進歩し、既存の道徳精神に批判が生まれてきた時代でした。ニーチェはそのような時代にあって、キリスト教の信仰がもはや信ずるに値せず、新しい価値観が必要だと主張しました。
「神は死んだ」とは、「キリスト教の信仰は信ずるに値しない」という意味であり、それとともに「絶対的な視点は存在しない」という意味でもあります。ヨーロッパのキリスト教信仰によって、いかに生きるべきかという視点が固定されていた人々への、発想の転換を迫ったのです。
                   (中略)
 世界に意味を与えてきた神を否定し、目的も意味もない世界で生きることを受け容れるという、積極的に生を肯定するニヒリズムの態度を「積極的(能動的)ニヒリズム」といいます。ニーチェは積極的ニヒリズムの下、自らを創造的に展開していく「超人」になることを主張しました。
 ニーチェは『ツァラトゥストラ』で「超人思想」を示しました。ニーチェは、人間は弱い存在であり、自分の弱さをごまかすためにキリストや哲学を考え出してきたが、それらを克服して自分に誠実に、強い精神を持って積極的に生きる人間のことを「超人」と呼びました。」   
引用元:https://biz.trans-suite.jp/9428

つまり、神やスピリチュアルなどに頼らない合理的思考の持ち主が「イエスの再臨」を信じる事によってのみ、選民となり得るという事だろう。(「真理の御霊」(契約の使者)の到来によって、神は復活する。)

補足
「ニーチェはその著『ツァラトゥストラはかく語りき』において、人間関係の軋轢におびえ、生活の保証、平安、快適、安楽という幸福を求める現代の一般大衆を「畜群」と罵った。その上で、永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきと説いた。」
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/超人

念のため、超人が結集して初めて世の中を変えられるのだろう。残念ながら、現在の政治は衆愚政治である。(政治じゃなくても教師が教師をいじめるとかね。腐った世の中である。)

「新しいタイプの人類は今の人類とは全く違った価値観、考えを持っている。感情は均整が取れ知性は総合的、包括的な考え方をする。偏見で目が曇らされる事はなく、物質的な欲望に耽溺する事もない。
 競争よりは協力によって発展していく。排他的ではなく合一を目指す。とにかく色々な面に於いて現在の人類とは逆の考え方をするだろう。」
「ファウスト博士の超人覚醒法」斉藤啓一著より

>2 神は天から人の子を見おろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。
3 彼らは皆そむき、みなひとしく堕落した。善を行う者はない、ひとりもない。

「53:03神は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
53:04だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(新共同訳)

義人はひとりもいない、という奴だろう。

「3:10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
3:12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。」
「ローマ人への手紙」第3章10節~12節

「真理の御霊」(契約の使者)の出現を待つしかないのか。

「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
                        (中略)
13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」
「ヨハネによる福音書」第16章7節~8節,13節

きっと、義の教師なのだろう。

「1.わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
2.わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」
「ヤコブの手紙」第3章1節~2節

この人は、イエスが再臨したらイエスに厳しい裁きを受けると思ったのかな。面識がある弟子なのに?

「50.わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。
「ヨハネによる福音書」第8章50節(口語訳)

「08:50わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。
「ヨハネによる福音書」第8章50節(新共同訳)

おまけ