参考資料2143 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

箴言 その58
「10 通りがかりの愚か者や、酔った者を雇う者は、すべての人を傷つける射手のようだ。
11 犬が帰って来てその吐いた物を食べるように、愚かな者はその愚かさをくり返す。
12 自分の目に自らを知恵ある者とする人を、あなたは見るか、彼よりもかえって愚かな人に望みがある。
13 なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。
14 戸がちょうつがいによって回るように、なまけ者はその寝床で寝返りをする。
15 なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。
16 なまけ者は自分の目に、良く答えることのできる七人の者よりも、自らを知恵ありとする。
17 自分に関係のない争いにたずさわる者は、通りすぎる犬の耳をとらえる者のようだ。
18 隣り人を欺いて、「わたしはただ戯れにした」という者は、燃え木または矢、または死を、投げつける気が変な人のようだ。」
旧約聖書「箴言」第26章10節~18節

感想
>10 通りがかりの愚か者や、酔った者を雇う者は、すべての人を傷つける射手のようだ。

「26:10愚か者を雇い、通りすがりの人を雇うのは
射手が何でもかまわず射抜くようなものだ。」(新共同訳)

口語訳と新共同訳では全然違うが、面接もしないで雇うのは失敗も覚悟の上でだろう。そんな事も分からない人は、人を雇えるような立場にはならない(なれない)だろう。

>11 犬が帰って来てその吐いた物を食べるように、愚かな者はその愚かさをくり返す。

「26:11犬が自分の吐いたものに戻るように
愚か者は自分の愚かさを繰り返す。」(新共同訳)

愚かな人は自分の物差しで他人を測って失敗するが、バカだから長年をかけて培った自分の物差しが間違っているとは思わず、同じ失敗を繰り返す。または、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で同じ失敗を繰り返す。

一応、犬が吐いたものを食べるかどうか裏を取ってみた。

「犬が食べたものを口から吐き出すことは、よく起こることです。これを嘔吐だと思っている人は多いでしょうが、もう少し詳しい見方をしましょう。
                          (中略)
嘔吐と吐き出しでは、ほかにも違いが見られます。嘔吐の場合、動物は下を向いて吐きますが、吐き出しでは、力強く前に飛ばすように吐きます。また、嘔吐で戻したものを動物は食べませんが、吐き出しで戻したものは、食べたときとほとんど変化していませんので、また食べることがあります。」
引用元:http://www.pet-hospital.org/dog-002.htm

>12 自分の目に自らを知恵ある者とする人を、あなたは見るか、彼よりもかえって愚かな人に望みがある。

「26:12自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。」(新共同訳)

現代では非常に多いんじゃないかな。自己啓発本とか出そうとしている人は皆そうだろう。望みとか希望が何を指しているかによるよね。頭がいい人が義人とは限らない、というより、IQと人格(義)は反比例する傾向があるだろう。

「新しいタイプの人類は今の人類とは全く違った価値観、考えを持っている。感情は均整が取れ知性は総合的、包括的な考え方をする。偏見で目が曇らされる事はなく、物質的な欲望に耽溺する事もない。
 競争よりは協力によって発展していく。排他的ではなく合一を目指す。とにかく色々な面に於いて現在の人類とは逆の考え方をするだろう。」
「ファウスト博士の超人覚醒法」斉藤啓一著より

>13 なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。

「26:13怠け者は言う
「道に獅子が、広場に雄獅子が」と。」(新共同訳)

怠け者は、何かと理由を付けて自分を正当化するという事だろう。

>15 なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。

「26:15怠け者は鉢に手を突っ込むが
口にその手を返すことをおっくうがる。」(新共同訳)

怠け者は、グルメじゃない事だけは確かである。ただし、金持ちの怠け者は知らない。
また、酒好きな傾向があるだろう。

>16 なまけ者は自分の目に、良く答えることのできる七人の者よりも、自らを知恵ありとする。

「26:16怠け者は自分を賢者だと思い込む
聡明な答えのできる人七人にもまさって。」(新共同訳)

インターネットの時代に知恵とか言っても、知識はすぐに手に入るし、誰も彼も五十歩百歩じゃない? もちろん、クイズ王みたいに検索しないなら話は別だが。あとは、検索しても分からない数学の問題とか?

「ドン・ファンはいう。
「わしがそれを戦いだというのは、それが苦しい努力だからだ。ほとんどの人間は、苦しい努力も考えもなく、次から次へと何かするんだ。だが狩人は反対に、一つ一つの行為をしっかりと見きわめるのだ」と。
 この言葉に今という時代を作っている「知」の枠組みに対する痛烈な皮肉を読み取ることはさして困難なことではないだろう。つまり、われわれに物質的な豊かさをもたらしている「知」の枠組みそのものが、自分たちの行為が地上最後の戦いであることを自覚せず、明日があるからと、自分たちが何をしているかについて「苦しい努力も考えもなしに」、次から次へとまわりの世界を貪り続けることを、むしろ奨励するような種類のものであること。
 このことが結果として個人のレベルにおいては、もつれた糸のように複雑で収拾のつかない日常をもたらし、地球レベルにおいては「環境破壊」という言葉に象徴される壊滅的な打撃をわれわれに生み育んできた地球に与え続けている原因になっているのだ。そして、われわれもそういう「知」の枠組みが支えている「描かれた世界」の一部を生きているのだ。
 そういう愚かさを断ち切り、死ぬ直前に「おお、そんな!」などと叫びをあげるような道を歩まないためにも、自分の死を自覚し、自分の行為を地上最後の戦いにすることで、間違いのない道へと導く「正しい力」を湧き出させ、自分の行為がベストのものになるように慎重に一つ一つことを運ぶ必要があるのだ。
 そして、それが狩人になるということなのである。」
「知者(スーパーエリート)に成る道」細川廣次著より

>18 隣り人を欺いて、「わたしはただ戯れにした」という者は、燃え木または矢、または死を、投げつける気が変な人のようだ。

「26:18分別を失った者が、火矢を、死の矢を射る。
26:19友人を欺く者はそれに等しい。しかも、「ふざけただけではないか」と言う。」(新共同訳)

コンプレックスの塊のような状態になっているのだろう。自分がされて嫌な事を他人にするという事はそういう事である。

「10 またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
11 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。」
「ヨハネの黙示録」第22章10節~11節

おまけ