参考資料2039 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

伝道の書 その4
「1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
9 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
10 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
12 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
13 またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
14 わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
15 今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。」
旧約聖書「伝道の書」第3章1節~15節

感想
>1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

特にイエスは「時」にこだわっていたね。

「7:1 そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった。
7:2 時に、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた。
7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。
7:4 自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。
7:5 こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。
7:6 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。
7:7 世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである。
7:8 あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。
7:9 彼らにこう言って、イエスはガリラヤにとどまっておられた。」
「ヨハネによる福音書」第7章1節~9節

しかし、イエスの兄弟たちも薄情だよね。救世主と信じなくてもいいが、命を狙われていたのは確かなんだから。

>7:4 自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。

因みに、旧約聖書の「イザヤ書」には次のようにある。

「1 わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。
2 彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、
3 また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
4 彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。」
「イザヤ書」第42章1節~4節

まさに、「時」はインターネットの発達を待っていたのだろうか。

「2.おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
3.だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。」
「ルカによる福音書」第12章2節~3節

>12 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。

これは偉人と普通の人に分けなければいけないだろう。例えば、偉人が苦労して発明したものがあるから、文明的な暮しを享受できる訳だから。普通の人は、

「今に世界の臣民人民、誰にも判らんようになりて、上げも下ろしもならんことになりて来て、これは人民の頭や力でやっているのではないのざということハッキリして来るのざぞ。何処の国、どんな人民も、成程なァと得心のゆくまで揺さぶられるのであるぞ。今度は根本の天の御先祖様の御霊統と、根本のお地の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国(日本)とユダヤ神国と一つになりなされて、末代動かん光の世と、影のない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれ、楽しけれ
『日月神示』(「ユダヤの救世主が日本に現われる」中矢伸一著(1992年)より)

聖書が言う「全き人」を目指しましょう。

「偉い人と完璧な人は違います。
 偉い人とは、性格の一部に欠落があったとしても、その欠落を十分にカバーできる、他に優れた点がある。つまり、大きく「とんがった」人が偉い人です。
 一方、完璧な人は、足りないところがない人です。智情意の一つひとつが優れている必要はありませんが、この3つの要素のバランスがとれ、かつ、発達しているのが常識ある人、つまり、完璧な人になるのです。
 私たちの社会では、もちろん、ヒーローやリーダーのような偉い人が必要です。ただ、社会の多数の人に希望すべきことは偉い人になることではなく、完璧な人になることではないでしょうか。
 実は、ヒーローやリーダーの用途は無限とは言えません。ただ、智情意がバランスしている完璧人間はいくらでも必要になります。
 全員が偉い人だったら、社会は麻痺してしまうでしょう。一方、全員が常識を持った完璧人間であったら、偉い人は必要ありません。」
引用元:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190113-00010000-nkbizgate-bus_all

>14 わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。

イエスは旧約聖書の教えを更新している(「マタイによる福音書」第5章など)ので、これは必ずしも正しいとは言えないだろう。つまり、例外がいるという事である。
「真理の御霊」(契約の使者)が現われたら、従来のキリスト教徒の聖書解釈を正しく解釈し直すだろう。

「08:50わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」
「ヨハネによる福音書」第8章50節(新共同訳)

「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
けれども真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」
「ヨハネによる福音書」第16章7節~14節

おまけ