伝道の書 その2
「1 わたしは自分の心に言った、「さあ、快楽をもって、おまえを試みよう。おまえは愉快に過ごすがよい」と。しかし、これもまた空であった。
2 わたしは笑いについて言った、「これは狂気である」と。また快楽について言った、「これは何をするのか」と。
3 わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。
4 わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、
5 園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、
6 池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。
7 わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。
8 わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。
9 こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。
10 なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。
11 そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。」
「伝道の書」第2章1節~11節
感想
>わたしは自分の心に言った、「さあ、快楽をもって、おまえを試みよう。おまえは愉快に過ごすがよい」と。しかし、これもまた空であった。
ソロモン王は、哲学的な事を言うのが好きだったのだろう。正妻が700人、妾が300人もいたらしいからね。決して、「空」(無)または「空しい」とは思っていなかっただろう。そう思っていたら、釈迦のように出家しただろう。
「そして遂に、29才の時に、釈迦牟尼は出家を決意されましたが、父王は世俗の歓楽を尽くして思い止まらせようとしました。しかし、伎女たちの眠りこける乱れた姿を見ながら、ふと女たちの貪る心をその姿の奥に感じ、嫌悪をして、住み慣れた城を飛び出されました。」
引用元:http://www.shingon.or.jp/buddha.htm
> わたしは笑いについて言った、「これは狂気である」と。また快楽について言った、「これは何をするのか」と。
「笑い」って「狂気」だったの? 確かに狂人は笑っているイメージがあるけど。
因みに、イサク(「イサクの燔祭」のイサク)は「笑い」という意味らしい。「イサクの燔祭」を行ったアブラハムは狂気の持ち主だと思うが。(「お笑い」って楽しいものじゃない?)
「「イサク」の名は「笑い」の意を有し、彼の誕生前後のさまざまな笑いに由来する。」
引用元:https://kotobank.jp/word/イサク-30383
また、「快楽」といえば「セックス」をイメージする人が多いだろう。
「「セックスの徹底した真実、セックスの裏にある意味すべてを知る者にとって、セックスは用のないものとなる。彼はただ通り抜ける。彼はセックスを超越する」と、バグワンは言う。そして、また、「完全な性超越者のみが、セックスと神性についての完全な真実を明らかにできる」と断言し、このような“性超越”こそがブラフマ・チャリアに他ならないと述べているが、その究極的内容は詳述されていない。」
「脱カルマ霊動法」中野裕道著より
https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11311518460.html
「バグワンが「もし純粋な心と尊敬の感情をもってセックスに近づいたら、私たちは簡単に神の一瞥を得ることができる」と言っているように、二神融合を理想とするタントラの立場で、もし「愛」の感性にもう一つの条件を加えるとしたら、それは「敬」の一語でなければならない。敬の念を伴った愛の感情こそが性を霊性化させる条件であり、神に到る道に他ならないわけだ。愛は一つになるというエネルギーの放射に過ぎない。アートマンとブラフマンとが合一するために、愛が選ばれたのだと言ってもよい。それにバグワンも言う如く「敬」の情念が加わることによって、それは宗教的儀式に昇華することができる。」
「脱カルマ霊動法」中野裕道著より
https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11312226195.html
ただし、バグワン・シュリ・ラジニーシの事なんか全く信用していない。
「イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」
「マタイによる福音書」第22章29節~30節
「イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使にも等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」
「ルカによる福音書」第20章34節~36節
補足
「オウム真理教のキーワードが「カルマ」や「タントラ」などの用語だとすれば、オウム真理教に対して批判的な論調の合い言葉は「反社会性」である。
これに対して、オウム真理教擁護の論陣を張る論客も出てきた。その代表的存在が、宗教学者の中沢新一氏だ。
中沢氏はみずからオウム真理教の「弁護人」と称し、さまざまな機会をとらえて弁護活動を展開している。
「そりゃ、オウム真理教は反社会的かもしれないけど、あらゆる宗教で反社会的でない宗教なんてあり得ないんだよね。人間の欲やシットがつくる社会なるものに絶対的な価値をおかないところから宗教が始まるわけでしょ。それをやめて社会と添い寝するようになったら、もう宗教なんて言えないよ。ところが今やマスコミはこぞって社会のスタンダードと添い寝する存在となりつつあるでしょ」(「クレア」1989年12月号)
これには麻原氏も意を強くしたらしい。みずから、「オウム真理教は、もともと反社会的な存在なのです」「「狂気」と言われているものにつきましても、はっきり私たちは狂気の悟りをめざしているのだ、と語ってきたのです」と居直るようになる。」
「救世主の野望」江川紹子著
因みに、私は刑務所の中では(酷い)統合失調症になっていたと考えているが、演技だとしたら面会に来た娘の前でマスターベーションを始めたというから「狂気」の持ち主だろう。愛人も100人いたらしいから、快楽追求のスペシャリストと言って良いだろう。
そもそも、「ポア」の解釈自体が狂っているが。あんた神さま?
>わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。
私は、緊張しいの人は別に酒を飲んで物事に挑戦しても良いと考えている。当然、完全に制御出来る事が条件だが。
「26.一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。
27.また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。
28.これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
29.あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。」
「マタイによる福音書」第26章26節~29節
これがぶどう酒(ワイン)である事は間違いないだろう。また、ヨーロッパの慣習を考えると朝や昼でも問題ない。http://cavewine.net/contents/2634
イエスの禁酒宣言は、磔刑を恐れていない事を証明しようとしたのだろう。(嘆き悲しんでいたが、恐れてはいなかったと思う。「マタイによる福音書」第26章37節~39節)
>そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。
じゃあ、麻原彰晃のように「自分をポアする」と言って自殺すれば良かったのに。本当は「欲望の奴隷」だったんじゃないの?笑
因みに、麻原彰晃は1999年11月に自殺を図ったらしいから(「ザ・ワイド」という番組で有田芳生さんが述べていた)、1999年7の月を最後まで信じていたんだろうね。それが起これば、裏切った弟子たちも戻って来ると信じて。
https://www.fnn.jp/posts/00333350HDK
おまけ