ヨブの物語 その4
「かれらの議論の中心になったのは、ヨブのように正しい人間がどうしてこれほどの不幸にあうのか、その一方、世間でしばしば悪い人間が栄えているが、これはどういうわけか、という点だった。
よい人がわけもなしに不幸におち、わるい人間が富みさかえるとしたら、神が信じられなくなるとしてもむりはない。ヨブもいまはあまりにもひどい不幸におちたために、神が信じられなくなっていたのである。
三人の友は、ありったけの知恵をしぼってヨブを説きふせようとしたが、どこまでもヨブは自分の考えがまちがっていないことを言いはって、最後にはとうとう友を言いまかしてしまった。
その時、みんなの会話をきいていたエリフという青年が、口をはさんだ。エリフはそれまで、じぶんがヨブたちよりずっと若いため、口出しするのを控えていたのだが、もう我慢ができなくなったのだった。
「ヨブさん。あなたはじぶんが正しいのに神がそれをすこしも認めないで、不幸につき落としたというのですね。あなたの訴えに神がすこしも応じて下さらないというのですね。それは思いあがった考えというものです。あなたはじぶんの少しばかりの正しさを鼻にかけて、神からの恵みを期待し、それが得られないからといって腹をたてている。そんな思いあがった心で神に訴えたところで、神がおこたえになるはずがないではありませんか。」
この若いエリフの言葉はヨブの痛いところをついた。信仰のあついヨブも、苦しさのあまり、いつか自分の小さい心で神をおしはかって、神をうらむ気持になっていたのだ。ヨブはそれを反省して、すべてを投げだして神のなさるままにお任せする気持になっていった。
ある日、だしぬけにつむじ風の中に神が姿をあらわして、ヨブにお呼びかけになった。
「ヨブ、男らしくせよ。おまえは自分を正しいとし、わたしがまちがっているというのか。責任をわたしに負わせようとするのだな。だが、おまえは神のような腕をもっているか。神のような声で空をとどろきわたることができるか。いったいおまえは、だれがこの太陽や月や、大空や海をつくったか、忘れたのか。この大地も、その上で生きている人間も、あらゆる生きものも、みんなわたしがつくったものではないのか。おまえは自分の身分を忘れて、自分のわからぬことにまでいろいろ理屈をこねているだけなのだ。それでもお前は、どこまでもわたしと争おうとするのか。」
神の声をきき、その姿を見たとき、さすが頑なになっていたヨブの心も、うち砕かれた。ヨブはそこにひれふして、うやうやしく答えた。
「あなたはまことにどんなことでもおできになる万能の主です。それなのにわたしはまことに卑しい者で、自分のからだひとつ思うようにできませんのに、自分でも知らないことを得意になってしゃべっておりました。あなたのお声を耳にきき、お姿を目に見まして、わたしはつくづくと悔い恥じました。もはや二度とあのようなことは申しませんから、どうぞお許しくださいまし。」
こうして神の前にへりくだった気持になったとき、もはやヨブには、病気の苦しみも、貧乏になったことも、子供が死んでしまったことも、すべて神の光につつまれたものとなって、真実の安らかさが訪れたのであった。
悪魔はついに賭けにまけて、ヨブから手をひくしかなかった。
まもなく病気もなおった。ヨブは神のはからいをたたえて、またせっせと仕事にはげんだ。すると、みるみるまた財産はふえ、子供も幾人か生まれて、彼は前にもまして仕合せ生涯をおくることができた。
ヨブは百四十歳まで生きながらえたが、そのころにはヨブの財産は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛二千頭をこえ、数えきれないほどの子供や孫や曽孫にかこまれていたという。」
「聖書物語・旧約物語」山室静著より
感想
何となく、今話題の小室圭さんや花田優一さんを連想したが、ベッキーの事件なども関係ない第三者が勝手に裁くべきではないだろう。
「7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量りが与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 」
「マタイによる福音書」第7章1節~5節
世の中、偽善者ばかりである。ただし、一人だけ例外がいるらしい。
「わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。」
「ヨハネによる福音書」第8章50節(口語訳)
「08:50わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」
「ヨハネによる福音書」第8章50節(新共同訳)
つまり、イエスの栄光を求める者が「裁く者」らしい。
「けれども真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」
「ヨハネによる福音書」第16章13節~14節
つまり、「真理の御霊」(契約の使者)だけが裁く者である。
補足
「なかでも嫌だったのは元信者の方が私の母に話した体験談であった。
眠る時間もなく、心も身体もボロボロになりながら、バスに寝泊りしながら珍味を売り歩いたことをとつとつと語る彼女の体験談は、絶え間なく私の心を揺り動かす。
いままで知らなかった教会(統一教会)の暗い部分が急に輪郭を持って浮かびあがってくる恐怖感。私は眠ったふりをして耳をふさいだ。日を追うごとに、次々に耳に入ってくる“隠された話”によって、私は混乱していった。
彼等は嘘を言っているのか?嘘ならば何故こんなに説得力があるのか。統一教会で教えられた神では解決できないことが多すぎた。でも私にはそれしかなかった。
旧約聖書のヨブ記を読みだしたのはそんな私の迷いが頂点に達した時だった。その日私は「聖書の中から私に一番必要なみ言をさずけて下さい」とお祈りをして聖書を開いた。それで出てきたのがヨブ記の1ページ目だったのだ。
ヨブ記は、ヨブという人物が神の了解のもと、サタンによってその信仰を試される話である。財産も幸福な家庭も持っていて信仰心道徳心ともに篤く、義人として知られているヨブに、次々とサタンの不幸が襲う。
事故により家族や財産を失い、不治の病に冒されたヨブは、やがて人々の嘲笑を受ける立場にまで貶められる。そこで三人の友が彼を慰めに来るが、ヨブは苦しみからその言葉でもって神を呪う。三人の友はヨブのその言葉に憤り、激しく彼を責める。
このやりとりがまるで自分の心の葛藤と重なって胸にせまってきた。もちろん私は、信仰を捨てて神を呪うとは何事かと嘆く三人の友に、より近い感情を抱いていた。長々と続く応酬の後に、そこに神が現れてヨブに答えられた。
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ」(ヨブ記38章2節3節)
そして神が、御自身がこの世を造ったことを滔々(とうとう)と語られた後に、ヨブは許され、病気も癒され、財産を取り戻す。
正直に言おう。この時の私の感想はハラホロヒレハレであった。そしてすっかり腰が砕け散った気分であった。私の解釈が正しいかどうかは判らない。ひょっとしたら、神は単にそうしたかったから、サタンの手にヨブを渡しただけかもしれないと思った。
ページを閉じた後も、「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」という言葉だけが私の頭にこびりついていた。私はとにかく話をしてみようと決心した。それが嘘かそうじゃないかは、聞いた後で判断すればいい。
こう考えるまでに私は実に、十四日間という日数を要したのである。それから私は真実を知ることとなった。父親はこの頃の私について、薄紙が剥がれてゆくように、と表現したが、私としてはまさにかさぶたがベリベリと剥がれてゆくような気分であった。
私は原理講論で使われている聖句を、聖書を通してじっくりと読んでみた。そして、統一原理が引用している聖句がいかにねじまげられて使われているかを理解し、統一教会の教理がどれほどずさんで、でたらめであるかを検証したのである。そしてその上で、統一教会自らが出版した膨大な量のパンフレットや書籍などを較べた結果、その中にある数多くの矛盾や嘘を、はっきりとこの目で確かめたのだ。
数多くの元信者の方にもお目にかかった。何億というお金をたった一人でだまし取ったと告白する女性もいたし、ビデオを観、研修を受けてもまだその気にならない人達を、献身させるよう教育する仕事についていた人もいた。・・・・被害者がいつしか加害者にすり替わってゆくこの統一教会のカラクリの中において、必ず最初から加害者でいる人間がいる。
私はそんな統一教会の幹部の皆様に問いたい。
統一原理の教えには、いかなるものも万物復帰をしなければならない、とあるのに、どうして私(注:飯星景子さん)に珍味売りをしろと言われなかったのか?
原則として信者同士の結婚と言われている合同結婚式によって、どうして日本の信者の女性が統一原理のトの字も知らない異国の男性に嫁がされなくてはならないのか?
私は信仰も三日儀式もへったくれもなく、泣く泣く初夜を迎えなくてはならなかった女性の話を聞いたのだ。そして、霊感商法は関係ないと公にコメントを続けながら、なぜあんなに多くの元信者が統一教会の名のもとで経済活動を行ったと証言しているのか?
文鮮明氏が再臨主であるというのなら、一体彼はどういう血統によって原罪のない人間として生まれてきたのか?
答えて欲しい。しかし、そんな当然の疑問も統一教会という迷宮に入り込んでしまえば、簡単なごまかしやすり替えによって全く気にならなくなってしまう。それが統一教会で行われているマインド・コントロールというものなのだ。
私が統一教会と訣別するに至ったのはこうして真実を知り、そのうえで私が判断した結果である。そして、私がこの結果を導きだすために、一体何人の人達が私のために泣き、苦しみ、援助し、そして愛の手を差しのべてくれたことか。特に両親には、よくぞここまで耐え、そして持てる愛と力をつくしてくれたと、心から感謝する気持で一杯である。「悲しみの神、嘆きの神」と信じていた統一教会の神は、私の心のカサブタが剥がれ落ちた瞬間から消えてなくなった。
私にとっての神は決して、人を不幸にしてまでお金を必要とする神ではないのである。この件について私は、たくさんの人達に迷惑と心配をかけてきた。現在の心境をいえば、途方に暮れているといってもいいだろう。けれどもやはり気をとりなおして、生きなきゃしようがないのである。
なぜなら聖書には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として下さって、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネ第一の手紙四章十節)とあるからである。」
「脱会 - 山崎浩子飯星景子報道全記録」より
おまけ