参考資料2019 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

「救い主」を待ちのぞむイザヤ その4
「救い主を待ちのぞむこと、そして、神はきびしい正義の神であるよりも愛の神であるとすることが、これらの予言者の考えの特長といえる。この点で彼らはイエスの先ぶれであったのだ。
 このイザヤの行いやことばを書きとめている「イザヤ書」は、前半と後半にあらわれている考えがくいちがっているので、イザヤという予言者は二人いたのだとか、まえの部分だけがイザヤの記事で、あとの半分は、もっと後の時代の別の人の記事がまじったのだ、などといわれている。そして、神についての考えがキリストの考え方に近いのは、この後半部分(40章以下。56章以下はまた別人と考えられる)なのだ。だから、それをそのままアハズ王の時代のイザヤの考えだとすることは、まちがいかもしれない。
 イザヤという予言者が二人あったとする人たちは、このあとのほうの人を「第二イザヤ」とよんでいる。」
「聖書物語・旧約物語」山室静著より

感想
>救い主を待ちのぞむこと、そして、神はきびしい正義の神であるよりも愛の神であるとすることが、これらの予言者の考えの特長といえる。この点で彼らはイエスの先ぶれであったのだ。

一応、昨日の記事から、「アモス、ホセア、ミカなどの予言者も、イザヤに近い考えを説き、「救い主」のあらわれることを予言した」。

「2 しかしベツレヘム・エフラタ
よ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。
3 それゆえ、産婦の産みおとす時まで、主は彼らを渡しおかれる。その後その兄弟たちの残れる者は/イスラエルの子らのもとに帰る。
4 彼は主の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。今、彼は大いなる者となって、地の果にまで及ぶからである。」
「ミカ書」第5章2節~4節

2000年前のイエス出現の予言だろう。また、「アモス書」に変な箇所を見つけたので、抜き書きしよう。

「16 それゆえ、主なる万軍の神、主はこう言われる、「すべての広場で泣くことがあろう。すべてのちまたで人々は『悲しいかな、悲しいかな』と言う。また彼らは農夫を呼んできて嘆かせ、巧みな泣き女を招いて泣かせ、
17 またすべてのぶどう畑にも泣くことがあろう。それはわたしがあなたがたの中を通るからである」と主は言われる。
18 わざわいなるかな、主の日を望む者よ、あなたがたは何ゆえ主の日を望むのか。これは暗くて光がない。
19 人がししの前を逃れてもくまに出会い、また家にはいって、手を壁につけると、へびにかまれるようなものである。
20 主の日は暗くて、光がなく、薄暗くて輝きがないではないか。
21 わたしはあなたがたの祭を憎み、かつ卑しめる。わたしはまた、あなたがたの聖会を喜ばない。
22 たといあなたがたは燔祭や素祭をささげても、わたしはこれを受けいれない。あなたがたの肥えた獣の酬恩祭はわたしはこれを顧みない。
23 あなたがたの歌の騒がしい音をわたしの前から断て。あなたがたの琴の音は、わたしはこれを聞かない。
24 公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。
25 「イスラエルの家よ、あなたがたは四十年の間、荒野でわたしに犠牲と供え物をささげたか。
26 かえってあなたがたの王シクテをにない、あなたがたが自分で作ったあなたがたの偶像、星の神、キウンをになった。
27 それゆえわたしはあなたがたをダマスコのかなたに捕え移す」と、その名を万軍の神ととなえられる主は言われる。」
「アモス書」第5章16節~27節

>それはわたしがあなたがたの中を通るからである」と主は言われる。

「主」が現われると、人々が悲しくて泣くらしい。こんな箇所を思い出した。

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。
わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」
「マタイによる福音書」第10章34節~38節

自分の十字架とは、従来のクリスチャンという事かもしれない。

>18 わざわいなるかな、主の日を望む者よ、あなたがたは何ゆえ主の日を望むのか。これは暗くて光がない。
19 人がししの前を逃れてもくまに出会い、また家にはいって、手を壁につけると、へびにかまれるようなものである。
20 主の日は暗くて、光がなく、薄暗くて輝きがないではないか。
21 わたしはあなたがたの祭を憎み、かつ卑しめる。わたしはまた、あなたがたの聖会を喜ばない。

ペテロは「主の日を待ち望め」と教えたと思ったが。

「愛する者たちよ。この一時を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
しかし、主の日は盗人(ぬすびと)のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
「ペテロの第二の手紙」第3章8節~13節

やはり、「わたしはあなたがたの祭を憎み、かつ卑しめる。わたしはまた、あなたがたの聖会を喜ばない」とあるので、「主」は、従来のクリスチャンを選民とは思っていないのだろう。

>24 公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。

従来のクリスチャンは、パウロの教えから「義」を「神の義」としてイエス信仰に取っているが、やはり「義」は「人の義」だろう。勿論、「イエスの再臨」を信じる事も同じレベルで大事である。片方だけでは、選民とはなれない。

「35.そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
36.「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
37.イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
38.これがいちばん大切な、第一のいましめである。
39.第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
40.これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 」
「マタイによる福音書」第22章35節~40節

補足:「パウロの教え」とは。
「15.わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人(つみびと)ではないが、
16.人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」
「ガラテヤ人への手紙」第2章15節~16節

ただし、ヤコブは次のように述べている。

「20.ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。
21.わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
22.あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
23.こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
24.これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。」
「ヤコブの手紙」第2章20節~24節

最後に「ホセア書」から。

「1 イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ。
2 あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、「不義はことごとくゆるして、よきものを受けいれてください。わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。」
「ホセア書」第14章1節~2節

「9 知恵のある者はだれか。その人にこれらのことを悟らせよ。悟りある者はだれか。その人にこれらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む。しかし罪びとはこれにつまずく。」
「ホセア書」第14章9節

おまけ