あらゆる預言を呑みこむキング・オブ・ゴッド その7
神の意志である預言を人間が変えることはできない2
「さらに神は、「みよ、さきに預言したことは起こった。わたしは新しいことを告げていう。そのことをまだ起こらない前に、わたしはまずあなた方に知らせよう」(イザヤ書42/9)と自信満々に宣言して「主なる神は、その定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」(アモス書3/7)、未来に起こることは、預言書をみればすべてわかるようになっているぞと確言しているのです。
これはコーランも同じで、「お前らに警告されたことは必ず起こる、裁きのときは必ず来る」(51章)とはっきり明言していますし、黙示録でも「これらの言葉は信ずべきであり、真実であり、まことである」(22/6)と預言の真実性を保証しており、かの聖母マリアの霊も「ゆめゆめ私の預言を疑ってはいけません」(於ベイサイド)と固く戒めているのです。
そして、「遅し早しはあるなれど、一度申したこと、必ず出てくるのざぞ。臣民は近欲で疑ぐり深いから、何もわからんから、疑う者もあるなれど、この神示、一分一厘違わんのざぞ」(日月神示)と念を押しています。
その理由は、「わたしが語っていることは、わたしの父(神)がわたしに仰せになったことをそのまま語っているのである」(ヨハネの福音書12/50)からです。
ノストラダムスによれば、「人間にとって未来の出来事は、結局のところ常に不確かなものであり、それはまるで神のこのうえもない力で明らかに支配され、統治されているようなものなのである」(セザールへの手紙)ということになります。
では、神自らこの世の出来事に直接手を下すというのか。
いえ、神はあくまでも高次元存在ですから、現実的にはこの世の所轄事項に関しては人間サイドで遂行する。そういうことかと思われます。そのために人間側の代表として選ばれた”選民”がユダヤ人であり、その両者の間で交わされた”契約”こそ、あの”旧約聖書”なのです。
これをユダヤ人の側からいえば、「われらはすべてのことをみ心の思慮のままに行いたまう方のみ旨により、預(あらかじ)め計画(さだめ)られ、神の民として選ばれたものなり」(エペソ人への手紙1/11)ということになるでしょう。
しかも、終末預言の大方は旧約聖書を母体としており、その旧約がユダヤ民族最大の聖典となっています。その旧約の神はヤハウエですから、いい換えれば、主ヤハウエの”預め計画(さだめ)られ”た終末の実現のために”選ばれたるもの”がユダヤ人である。そういうことになるわけです。」
「ヤハウエの巨大潮流預言」柴藤甲子男著より
感想
>さらに神は、「みよ、さきに預言したことは起こった。わたしは新しいことを告げていう。そのことをまだ起こらない前に、わたしはまずあなた方に知らせよう」(イザヤ書42/9)と自信満々に宣言して
この原文を調べてみたら、私が、インターネット時代に契約の使者が現れると解釈している箇所の続きだった。その部分も含めて抜き書きしてみよう。
「1 わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。
2 彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、
3 また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
4 彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。
5 天を創造してこれをのべ、地とそれに生ずるものをひらき、その上の民に息を与え、その中を歩む者に霊を与えられる/主なる神はこう言われる、
6 「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、
7 盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。
8 わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。
9 見よ、さきに預言した事は起った。わたしは新しい事を告げよう。その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう」。」
「イザヤ書」第42章1節~9節
1節~4節はよく引用していて、声を出さずに布教活動をするようなので、インターネット時代と解釈している。
6節の「あなたを民の契約とし」は、契約の使者が来たと信じた人々だけが選民になるという事だろう。
7節は比喩と思われるが、ダブルミーニングで「終わりの時」には実際に起こるのかもしれない。
9節の「さきに預言した事は起った」は契約の使者が来た事で、「新しい事」はこれから起こる予言で「あなたがた」は選民だろう。
>「主なる神は、その定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」(アモス書3/7)
この前後も抜き書きしてみよう。
「6 町でラッパが鳴ったなら、民は驚かないだろうか。主がなされるのでなければ、町に災が起るだろうか。
7 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
8 ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。」
「アモス書」第3章6節~8節
「主」のしもべである預言者とは、ただ一人の「契約の使者」(真理の御霊)だろうか。ただし、「ヨハネの黙示録」では二人のようだが。
「そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。
彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台(しょくだい)である。
もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。
預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に換え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。
そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。
彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。
いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。
地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。
三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。
その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。」
「ヨハネの黙示録」第11章3節~13節
一人か二人かはよく分からないが、「契約の使者」(イエスの証人)が預言しないうちは天変地異や戦争は起こらないらしい。もちろん、規模が小さいものは今まで通り起こるだろうが。
>これはコーランも同じで、「お前らに警告されたことは必ず起こる、裁きのときは必ず来る」(51章)とはっきり明言しています
これも何度も書いたが、コーランでも「イエスの再臨」が預言されている。
「ムスリムは、イーサーがこの世の終わりに近い時期に再臨すると信じている。クルアーンの一節は、将来のイーサーの復活について、以下のようにうたっている。
"本当にかれ(イーサー)は,(審判の)時の印の一つである。だからその(時)に就いて疑ってはならない。そしてわれに従え。これこそ,正しい道である。"[Quran 43:61]
イスラームの伝承によれば、イーサーはマフディー(正義の導き)による戦の最中に降臨すると考えられている。マフディーとは、イスラームの終末論ではイスラームの救世主として知られており、反キリスト(al-Masīh ad-Dajjāl。偽メシア)とその支持者に対抗する者である。」
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/イスラームにおけるイーサー#再臨
念のため、イーサーが「イエス・キリスト」でマフディーが「契約の使者」(真理の御霊)と解釈している。
>ノストラダムスによれば、「人間にとって未来の出来事は、結局のところ常に不確かなものであり、それはまるで神のこのうえもない力で明らかに支配され、統治されているようなものなのである」(セザールへの手紙)ということになります。
昨日の記事で取り上げた、「ノストラダムスも述べています。「来たるべき世紀はすでに決定されているのだから」(セザールへの手紙)と」と矛盾するね。
未来が全て決定されていたら神の意志なんて関係ないからね。結局、予言なんてシンクロニシティーレベルで、その時の人類全体の想念に影響されるものなのではないだろうか。だから、「イエスの再臨」は、敵でもアウトサイダーでも信じる人が増えなければ、実現しないものと考えている。
ただし、もし契約の使者が本当に現れたら、それは運命を超えた宿命だろう。
>しかも、終末預言の大方は旧約聖書を母体としており、その旧約がユダヤ民族最大の聖典となっています。その旧約の神はヤハウエですから、いい換えれば、主ヤハウエの”預め計画(さだめ)られ”た終末の実現のために”選ばれたるもの”がユダヤ人である。そういうことになるわけです。
因みに、イエスはこう述べている。
「42.イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、
『家造りらの捨てた石が
隅(すみ)のかしら石になった。
これは主がなされたことで、
わたしたちの目には不思議に見える』。
43.それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国(みくに)にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。」
「マタイによる福音書」第21章42節~46節
個人的には、中東が舞台に選ばれたのは、イエスの頃には意味が無かった「石油」が「終わりの時」の価値観に関係しているからだと思っている。だから、完璧な太陽光発電や他のクリーンエネルギーが完成する前に「終わりの時」に突入するだろう。
おまけ