マタイによる福音書 その36
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。
高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。
それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。
世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。
そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。
イエスはこれらの譬(たとえ)を語り終えてから、そこを立ち去られた。
そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。
この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこでも敬われないことはない」。
そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。」
「マタイによる福音書」第13章44節~58節
感想
>天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
オウム真理教のようだな。財産を全て布施して出家し、解脱という宝を目指す。まぁ、原始仏教出家もそういうものだろうが。
>また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。
高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
持ち物をみな売り払いという所が大事らしい。そして、高価な真珠が真理という所か。
「21.イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22.この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」
「マタイによる福音書」第21章節~22節
別に完全にならなくても「イエスの再臨」を信じ「隣人愛」を実行していれば千年王国に入れるだろう。ただし、完全になると真の「終わりの時」の十二使徒になるらしい。
「27.そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。
28.イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。」
「マタイによる福音書」第27章節~28節
イエスの教えは天の父から教えられたままを教えているので、この預言は十二使徒を変えて実現されるはずである。つまり、真の十二使徒が現れるという事。
>また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。
それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。
世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
「義人のうちから悪人をえり分け」という事は、世の中にはもっともらしい事を言う偽善者がいかに多いかという事である。
>そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。
特に解説がない所を見ると、上の内容を受けたものと思われる。つまり、古いものは整理して捨て新しいものは大事にするので(当時は骨董的価値など存在しなかっただろう)、古いものは悪人で新しいものは選民という事。
補足:http://www.wjelc.or.jp/aotani/2014/08/17/「天国の学者」/
>そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。
この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
イエスは、天の父の教えを直接受けたものと考えている。
「12.群衆の中に、イエスについていろいろとうわさが立った。ある人々は、「あれはよい人だ」と言い、他の人々は、「いや、あれは群衆を惑わしている」と言った。
13.しかし、ユダヤ人らを恐れて、イエスのことを公然と口にする者はいなかった。
14.祭も半ばになってから、イエスは宮に上がって教え始められた。
15.すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。
16.そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。」
「ヨハネによる福音書」第7章12節~16節
「26.あなたがたについて、わたしの言うべきこと、さばくべきことが、たくさんある。しかし、わたしをつかわされたかたは真実なかたである。わたしは、そのかたから聞いたままを世にむかって語るのである」。
27.彼らは、イエスが父について話しておられたことを悟らなかった。
28.そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。」
「ヨハネによる福音書」第8章26節~28節
「終わりの時」に現れる「契約の使者」(真理の御霊)も聖書を勉強した事がないのかもしれない。それでクリスチャンを圧倒するぐらいでなければ、とても道を備えるなんて役目は果たせないだろう。
「呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。」
「イザヤ書」第40章3節
「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。 3:2その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。」
「マラキ書」第3章1節~2節
「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
けれども真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」
「ヨハネによる福音書」第16章7節~14節
「真理の御霊」が現れて、当時のクリスチャンが堪えられないような内容を述べるのだろう。念のため、当時のクリスチャンが堪えられないという事は現代のクリスチャンも大抵は堪えられないという事だろう。
おまけ