参考資料1850 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

マタイによる福音書 その28
「耳のある者は聞くがよい。
今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
『わたしたちが笛を吹いたのに、
あなたたちは踊ってくれなかった。
弔いの歌を歌ったのに、
胸を打ってくれなかった』
と言うのに似ている。
なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人(つみびと)の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。
それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。
「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。
しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。
ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉(よみ)にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。
しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。
そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。」
「マタイによる福音書」第11章15節~30節

感想
>なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
また人の子(イエスの事)がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人(つみびと)の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する。

洗礼者ヨハネは実に禁欲的な男のようである。

「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣(の)べて言った、
「悔い改めよ、天国は近づいた」。
預言者イザヤによって、
「荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ』」
と言れたのは、この人のことである。
このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜(のみつ)とを食物としていた。
すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、
自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
ヨハネは、パリサイ人(びと)やサドカイ人(びと)が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
斧(おの)がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。」
「マタイによる福音書」第3章1節~10節

酒飲んだくれているイエスより遥かに救世主っぽいね。しかし、彼はレーサーレプリカのようなものだったのだろう。本来のレーサーと違い、前照灯・尾灯やスタンドがあるので、格好いいし公道で走れるが、本物のレースマシンとは比べ物にならない。

「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」
「マタイによる福音書」第3章11節

レプリカだったから「天の父」はイエスに死者の復活を行わせなかったのだろう。

「それから、ヨハネの弟子(でし)たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれを聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。」
「マタイによる福音書」第14章12節~13節

「天の父」の許可が得られなかったに違いない。第11章で、「イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり」と述べているのだから。

>それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。

イエスはすぐに人の悪口を言い出すしね。(人を裁くなと教えているのにね。)まぁ、本物のレーサーだから公道を走るようには出来ていないという事で。念のため、超越者という事。

「病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。
財布(さいふ)の中に金、銀または銭を入れて行くな。
旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。
どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。
その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。
もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。
もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。
あなたがたによく言っておく。さばきの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その町よりは耐えやすいであろう。」
「マタイによる福音書」第10章8節~15節

「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」と言いつつも、歓迎しなかったら地獄に落ちるような事を述べているし。

補足
「敬虔なユダヤ人は、異邦人の町を去るとき、異邦人の習慣から、自分を切り離すことを示すために足からちりを払い落した。
弟子たちのちりを払い落とす行為は、メシヤを拒絶したユダヤ人から自分を切り離すことを示した。
つまり、弟子たちのこの身振りは「あなたたちの選択は誤っているよ。キリストを選ぶ機会は二度と来ないかもしれないよ」ということなのである。」
引用元:https://ameblo.jp/sawako35/entry-11916966788.html

>すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

イエスを信じる者には優しいのだろう。麻原彰晃もそうだったしね。因みに、嫌いな人にはこんな事をしている。

「13.さて、ユダヤ人の過越(すぎこし)の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。
14.そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、
15.なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、
16.はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。」
「ヨハネによる福音書」第2章13節~16節

ただし、イエスも命懸けである。

「15.それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
16.また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
17.そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえられるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
18.祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。」
「マルコによる福音書」第11章15節~18節

おまけ