参考資料1732 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

ペテロの第二の手紙 その2
「それだから、あなたがたは既にこれらのことを知っており、また、いま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことをいつも、あなたがたに思い起させたいのである。
わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。
それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。
わたしが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう。
わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。
イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。
聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」
「ペテロの第二の手紙」第1章12節~21節

感想
>イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

これは「マタイによる福音書」第17章の出来事の事かな?

「六日(むいか)ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
ところが、彼らの目の前で、イエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
弟子(でし)たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。
彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。」
「マタイによる福音書」第17章1節~9節

因みに、イエスが洗礼者ヨハネに洗礼を受けた時にも同じような事が起こった。

「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊(みたま)がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。」
「マタイによる福音書」第3章16節~17節

>それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。
わたしが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう。

しかし、ペテロだったらこんな事言うだろうか。

「よく聞いておくがよい、人の子が御国(みくに)の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。」
「マタイによる福音書」第16章28節

これは多分、ペテロの事である。http://web1.kcn.jp/tombo/v2/MATTHEW16.html

イエスが昇天してからのペテロは次のようである。

「ペテロは方々をめぐり歩いたが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。
そして、そこで、八年間も床についているアイネヤという人に会った。この人は中風(ちゅうぶ)であった。
ペテロが彼に言った、「アイネヤよ、イエス・キリストがあなたをいやして下さるのだ。起きなさい。そして床を取りあげなさい」。すると、彼はただちに起きあがった。
ルダとサロンに住む人たちは、みなそれを見て、主に帰依した。
ヨッパにタビタ(これを訳すと、ドルカス、すなわち、かもしか)という女弟子(おんなでし)がいた。数々のよい働きや施しをしていた婦人であった。
ところが、そのころ病気になって死んだので、人々はそのからだを洗って、屋上の間に安置した。
ルダはヨッパに近かったので、弟子(でし)たちはペテロがルダにきていると聞き、ふたりの者を彼のもとにやって、「どうぞ、早くこちらにおいで下さい」と頼んだ。
そこでペテロは立って、ふたりの者に連れられてきた。彼が着くとすぐ、屋上の間に案内された。すると、やもめたちがみんな彼のそばに寄ってきて、ドルカスが生前つくった下着や上着の数々を、泣きながら見せるのであった。
ペテロはみんなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。それから死体の方に向いて、「タビタよ、起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起きなおった。
ペテロは彼女に手をかして立たせた。それから、聖徒たちや、やもめたちを呼び入れて、彼女が生きかえっているのを見せた。
このことがヨッパ中に知れわたり、多くの人々が主を信じた。」
「使徒行伝」第9章32節~43節

ペテロは自分が生きているうちに「イエスの再臨」があると信じていたのではないだろうか。(主の使いもペテロによく来ていたし。)もっとも、「ヨハネによる福音書」には次のような文章もあるが。

「よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子(でし)がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。」
「ヨハネによる福音書」第21章18節~23節

個人的には、ペテロが死刑になった後に書かれたと考えている。因みに、「ヨハネによる福音書」は自称「イエスの愛しておられた弟子」が書いているので、上の文章の子の弟子に関する話は作り話だろう。

>聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

まさにクリスチャンの人にそう言われそうである。因みに、「終わりの時」になると普通の人が預言者になるらしい。

「17.『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。
そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。
18. その時には、わたしの男女の僕(しもべ)たちにもわたしの霊を注ごう。
そして彼らも預言をするであろう。
19. また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。
20. 主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。
21. そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。 」
「使徒行伝」第2章17節~21節

一応、原文は「ヨエル書」第2章。

「28 その後わたしはわが霊を/すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。
29 その日わたしはまた/わが霊をしもべ、はしために注ぐ。
30 わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。
31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。
32 すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。」
「ヨエル書」第2章28節~32節

今までは何となく「主の日」は天変地異で恐ろしいと思っていたが、「恐怖の大王」が舞い降りて善人も悪人も殺戮しまくるのではないだろうか。だから「月が血に変わる」。そして、生き残った者だけが千年王国に入れるのかな。(仲間のために自己犠牲で死んだ奴も。)

ノストラダムスの10巻74番の詩
大きな7番目の数が満了すると
その時に大殺戮が明らかになるだろう
偉大な千番目の年からそれほど離れていない
なんと入っている者が彼らの墓から出て来るだろう
https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11965232637.html

おまけ