参考資料1725 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

ペテロの第一の手紙 その7
「このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。
それは、肉における残りの生涯(しょうがい)を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨(みむね)によって過ごすためである。
過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。
今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。
彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。
死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。
万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。
何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。
不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。
あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。
語る者は、神の御言(みことば)を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。」
「ペテロの第一の手紙」第4章1節~11節

感想
>それは、肉における残りの生涯(しょうがい)を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨(みむね)によって過ごすためである。

まったく関係ないけど、

「彼女は、オフィス北野と折り合いが悪く、事務所関係者とは極力顔を合わせないようにしているそうですが、たけしの仕事現場に顔を出す機会も少なくない。たけしは、以前『週刊ポスト』(小学館)の連載で、年齢的に『勃たない』と告白しており、愛人報道の際も“男女の関係”を否定したと伝えられているものの、彼女の“ビジネスの才能”にはかなり惚れ込んでいて、関係者の中には、『たけしさんは、もはや彼女の操り人形』と見る者もいるようです」
引用元:http://www.cyzowoman.com/2018/03/post_176807_1.html

『勃たない』が「神の御旨」か。(笑) 念のため、冗談で言った事もそこだけ切り取られると真意は分からない。

「34.地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
35.わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
36.そして家の者が、その人の敵となるであろう。
37.わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
38.また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
39.自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
40.あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」
「マタイによる福音書」第10章34節~40節

「十六世紀、キリスト教が伝えられて以来、日本では「神」や「救世主」の概念はひどく歪められた形で理解されてきた。
 多くの日本人は、漠然と「神」「救世主」とは私たち人間を不幸のドロ沼から救い出し、無限の愛で包んでくれる母のようなもの―――と思い込んでいる。救世主というものは「愛の力」によって私たちを戦争や貧困から救い出し、現在の平和と繁栄をいつまでも保ち続け、いつかは病気も戦争もない理想の人類社会を実現してくれる素晴らしい存在ということに相場が決まってしまっている。
 だが、本当の神というものは、そんなに人間に都合よくできてはいない。神は私たちに愛や安寧を一方的に送り続けてくれる「幸せ配達人」などではない。神とは私たち人間の意思や思惑を超えた絶対的存在であり、私たちとはまったく別の論理で動く、恐るべき存在なのだ。
 ときに神は私たち人類のケチな願望、思惑などまったく無視し、自分の造ったこの世界、宇宙を平然と精算し、また新しく造りなおすはかり知れない力を発揮される。しかもそれはきわめて無慈悲に行われる。
 本当の神は人間の意思、意向とはまったく無関係に動かれる場合があり、われわれとわれわれを取り巻くこの世界を滅亡させるということもされるのである。世の人びとは「今の平和を維持し、人類を核戦争の破滅の淵から救ってくれれば、それが救世主」と思いがちだ。しかし、そんな神様は本当の神様ではない。本当の神とは今の腐り果てた世界を、そのまま維持したりはしない。
 本当の神というものは、ときに人類の思惑、願いなどに聞く耳は持たず、この世界を破滅の淵に突き落とすこともされる。ある者を救うためには、ある者は滅ぼさねばならないのだ。つまり、この世を裁くことこそ本当の神の仕事なのである。
 本当の愛に満ちる者は、また激しく怒る者である。天地創造の神も同じだ。愛するゆえに怒るのである。
 長い間、農耕民族であり続けた私たち日本人は、共同体のなかで何ごとにつけても対立を忌避し、融和を重んじてきた。しかし融和を重んじるといえば聞こえはいいが、実際には原理、原則を無視したナアナア主義、無原則主義であった。
 そうである以上、私たち日本人の宗教観も、無原則なナアナア主義、あいまい主義に終始してきた。そのため、救世主の概念もひどくいいかげんで、あいまいである。だから前に書いたような、「何でもいいから、自分たち人間の都合のいいようにしてくれれば、それが救世主」というご都合主義的発想が、多くの人の頭を支配するようになるのだ。」
「666の大破滅」内藤正俊著(1991年)より

>死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。

これも関係ないけど、オウムの死刑囚はいよいよ死刑になるのかな?http://www.sankei.com/affairs/news/180315/afr1803150002-n1.html

私も滝本弁護士と同意見で、手足を死刑にしてもあまり意味はないね。所詮、麻原彰晃がいなければ何も出来ない雑魚なんだから。それより被害者意識で魔女狩りのように死刑に死刑にしろと言う方が恐いね。(本当の被害者は除く。)

「人をさばくな。自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」
「マタイによる福音書」第7章1節~5節

おまけ