参考資料1257 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

ヨハネによる福音書 その52
「28.そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
29.そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。
30.すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
31.さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。
32.そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。
33.しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。
34.しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。
35.それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。
36.これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。
37.また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。
38.そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子(でし)となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。
39.また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬(もつやく)と沈香(ぢんこう)とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。
40.彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。
41.イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
42.その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。」
「ヨハネによる福音書」第19章28節~42節
 
感想
イエスが「神よ、神よ、どうして私を見捨てたもうた」と言ったような事が全く省かれているね。ペテロの大泣きシーンの削除といい、やはり著者の「イエスが愛しておられた弟子(自称)」は偏った物の見方をしている。そして、聖書にはあまり詳しくなかったようである。このセリフは明らかに旧約聖書「詩篇」の一節だからである。ただし、他の弟子も皆気付かなかったようだからイエスの弟子は皆聖書にはあまり詳しくなかったようである。(パウロは除く。)

「46.そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47.すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。」
「マタイによる福音書」第27章46節~47節

「34.そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35.すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。」
「マルコによる福音書」第15章34節~35節

因みに、「ルカによる福音書」は違っている。

「そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。」
「ルカによる福音書」第23章46節

ただし、矛盾はしていない。「マタイによる福音書」第27章50節には「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息を引きとられた」とあり、また「マルコによる福音書」第15章37節にも「イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた」とあるので、この時に「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫んだのだろう。ただし、「ヨハネによる福音書」では「すべてが終った」だが。

「22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」
旧約聖書「詩篇」第22篇1節

「31:5 私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。」
旧約聖書「詩篇」第31篇5節

イエスの弟子が聖書にあまり詳しくなかった証拠。

「13.人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同様に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。」
「使徒行伝」第4章13節

ただし、独学(イエスの教え)で詳しかったかもしれない。

「10.弟子(でし)たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。
11.答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。」
「マタイによる福音書」第17章10節~11節

律法学者たちは、旧約聖書「マラキ書」の一節を知っていたのだろう。

「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。」
「マラキ書」第3章1節

または、第4章の一節。

「4:5見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。 4:6彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。」
旧約聖書「マラキ書」第4章5節~6節

>28.そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
29.そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。

これは旧約聖書「詩篇」69篇21節。

「彼らはわたしの食物に毒を入れ、わたしのかわいた時に酢を飲ませました。」

ぶどう酒じゃなくて酢なんだよね。別に毒も入れていないし。こういう事が何を意味しているのか考えてみた。聖書預言はあくまでも皆で実現させるものであって、神に依存して「神の国」の実現を待っているだけではダメ(意味がない)だという事だろう。

>36.これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。

これは旧約聖書「詩篇」第34篇。

「正しい者には災いが多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。」旧約聖書「詩篇第34篇19節,20節

刺し殺されていて、骨を守るもないだろう。ただし、皆で一つの事を信じて行動する事に意味があるのだろう。

>37.また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。

これは、旧約聖書「ゼカリヤ書」第12章10節と思われる。

「彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」

また、新約聖書の「ヨハネの黙示録」(西暦96年頃に書かれた)にはこうある。

「7.見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。」
「ヨハネの黙示録」第1章7節

ただし、明らかに違う場面だが。これはイエスが再臨する時の話。しかし、素朴な疑問もある。イエスを刺した人なんてとっくの昔に死んでいるし、刺した人なんて1人か2人でしょ。あまり、意味がない文章だよね。

おまけ