参考資料1250 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

ヨハネによる福音書 その47
「1.イエスはこれらのことを語り終えて、弟子(でし)たちと一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれた。そこには園があって、イエスは弟子たちと一緒にその中にはいられた。
2.イエスを裏切ったユダは、その所をよく知っていた。イエスと弟子たちとがたびたびそこで集まったことがあるからである。
3.さてユダは、一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人(びと)たちの送った下役どもを引き連れ、たいまつやあかりや武器を持って、そこへやってきた。
4.しかしイエスは、自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼らに言われた、「だれを捜しているのか」。
5.彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「わたしが、それである」。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。
6.イエスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた。
7.そこでまた彼らに、「だれを捜しているのか」とお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスを」と言った。
8.イエスは答えられた、「わたしがそれであると、言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」。
9.それは、「あなたが与えて下さった人たちの中のひとりも、わたしは失わなかった」とイエスの言われた言葉が、成就するためである。
10.シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕(しもべ)に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった。
11.すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」。」
「ヨハネによる福音書」第18章1節~11節

感想
全体的におかしいね。聖書を独学で勉強して1~2年ぐらいの私が言うのもおかしいが。まず、

>「だれを捜しているのか」。
5.彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「わたしが、それである」。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。

しかし、「マタイによる福音書」第26章には次のようにある。

「47.そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子(でし)のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
48.イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻(せっぷん)する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。
49.彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。
50.しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。」
「マタイによる福音書」第26章47節~50節

矛盾しているね。因みに、「マルコによる福音書」と「ルカによる福音書」でも接吻の方である。

>6.イエスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた。

これもおかしいね。この著者が話を盛っているとしか思えない。因みに、著者もヨハネ(使徒ヨハネ)かどうか怪しいらしい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8#.E8.A8.98.E8.80.85

>9.それは、「あなたが与えて下さった人たちの中のひとりも、わたしは失わなかった」とイエスの言われた言葉が、成就するためである。

よく旧約聖書の言葉が成就するためというのは出て来るが、イエス自身の言葉が成就するためにも行動していたのか? ちょっと怪しい。因みに、「ヨハネによる福音書」第6章39節の事かな。

「39.わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。」
「ヨハネによる福音書」第6章39節

この著者が話を作っている可能性が非常に高いね。極め付けは、

>10.シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕(しもべ)に切りかかり、その右の耳を切り落した。

ペテロがこんな事をする訳がないだろう。根性なしという理由だけでなく、イエスの教えにイエスの目の前で背くなんてあり得ないだろう。

「39.しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
「マタイによる福音書」第5章39節

そもそも剣なんか持っていないだろう。因みに、「マタイによる福音書」でも「マタイによる福音書」でも「ルカによる福音書」でもこのシーンの直後にペテロは自分が根性なしで情けない奴だと自覚して泣き続ける。どう考えても矛盾している。この著者はペテロの事を尊敬している人物なのだろう。しかも価値観がイエスの無抵抗主義(へりくだった者や子供のような者が最も偉い)を理解してなく現世の価値観で生きているレベルの低い弟子。でも何故かイエスが愛した弟子らしいが。(奇跡でも起こせたのかな。)

>11.すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」。

この「杯」はどういう意味なのかな。因みに、「マタイによる福音書」第26章にはこうある。

「39.そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。」
「マタイによる福音書」第26章39節

ここでは「杯」は捕まって磔刑になる事みたいだが。よく調べたら、「杯」とは「契約」の事らしい。http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_cup.php
また、前言撤回。ペテロが剣を持っていても、弟子が切り付けても不思議ではない。

「35.そして彼らに言われた、「わたしが財布(さいふ)も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。
36.そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。
37.あなたがたに言うが、『彼は罪人(つみびと)のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。
38.弟子(でし)たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。」
「ルカによる福音書」第22章35節~38節

ただし、私はやはり切り付けたのは(100%)他の弟子だと思っている。

「51.すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕(しもべ)に切りかかって、その片耳を切り落した。
52.そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。
53.それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。
54.しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。」
「マタイによる福音書」第26章51節~54節

因みに、「ルカによる福音書」では、

「49.イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、
50.そのうちのひとりが、祭司長の僕(しもべ)に切りつけ、その右の耳を切り落した。
51.イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。」
「ルカによる福音書」第22章49節~51節

因みに、この「癒し」はルカ伝にしかない。また、剣購入の話もルカ伝だけだし、これらも怪しいね。
「「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。」なんて怪し過ぎる。ただし、私の買いかぶりかもしれない。

おまけ