使徒行伝 その6
「1.さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、
2.生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。
3.彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。
4.ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
5.彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、
6.ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人(びと)イエス・キリストの名によって歩きなさい」。
7.こう言って、彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、
8.踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
9.民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、
10.これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。
11.彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。
12.ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。
13.アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕(しもべ)イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。
14.あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、
15.いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。
16.そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。」
「使徒行伝」第3章1節~16節
感想
>6.ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人(びと)イエス・キリストの名によって歩きなさい」。
7.こう言って、彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、
8.踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
ペテロの起こす奇跡も現代では考えられないレベルの超能力(心霊治療)だね。やはり、イエス自体が特別な存在(神の計画上)でイエスがいなくなってもそのレベルを心の底から普通だと思える人達はイエスと同じレベルの奇跡が起こせたのだろう。(ペテロも後に死者の復活を行っている。)
形骸化している現代のキリスト教に道徳的意義以外に何の意味があるのだろう。念のため、私は奇跡より隣人愛とか義が最も大事だと思っているが。キリスト教は排他独善的で他の宗教の神は皆悪魔らしいからね。
http://blog.goo.ne.jp/sion-etsuko/e/b7daa51ad8e42345d0e0fffcf50cf52b
カトリックとプロテスタント
「キリスト教カトリックの『教会の外に救いなし』(キプリアヌス)、およびプロテスタントの『キリスト教の外に救いなし』の文言はこの思想を端的に表した標語であった。ただし、カトリックは第2バチカン公会議(1962-1965)において、「キリスト教の教えに納得できない者やキリスト教を十分に理解していない者が洗礼を受けなくても、決して滅びることはない」という見解を示しており、プロテスタントも「信仰をもっていない者のことも、神の愛に信頼して任せることができる」と考える教会が多くなっている。」
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E7%9A%84%E6%8E%92%E4%BB%96%E4%B8%BB%E7%BE%A9#.E3.82.AB.E3.83.88.E3.83.AA.E3.83.83.E3.82.AF.E3.81.A8.E3.83.97.E3.83.AD.E3.83.86.E3.82.B9.E3.82.BF.E3.83.B3.E3.83.88
キリスト教は内部の抗争の方が激しそうだね。
「排他主義の根拠聖句は、ヨハネによる福音書14:6 「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」、使徒の働き4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」」である。」
(引用元は上と同じ。)
こういう文章を第一に考える世捨て人のような人たちとの近親憎悪が。
因みに、「使徒の働き」とは「使徒行伝」の事。第4章12節前後を抜き出してみよう。
「11.このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅(すみ)のかしら石となった石』なのである。
12.この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
13.人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同様に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、
14.かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。」
「使徒行伝」第4章11節~14節
因みに、「マタイによる福音書」第21章42節~46節ぐらいに『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅(すみ)のかしら石となった石』についての話があり、イエスは異邦人が神の国を受け継ぐだろうみたいな事を述べているが自分の事だったのか。イエス自身が異邦人って矛盾しない?(まぁ、弟子の言う事だからね。いくら凄い奇跡を起こせてもイエスと違って天の父から直接話を聞いている訳じゃないからね。)
おまけ