最後の晩餐 その2
「最後の晩餐 その1」
「食事がすむと、みなは神を賛える歌をうたってから、オリーブ山へ向かった。道は暗く、人々の心は重苦しかった。途中でイエスは弟子たちに言った―――きみたちはみなわたしにつまずくだろうと。と、ペテロが言った。
「たとえみなの者がつまずいても、わたしは断じてつまずきません。」
しかし、イエスは弟子たちに深い不信を抱いていたらしく、きびしく答えた。
「今夜、鶏が二度鳴く前に、そういうあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう。」
やがて山すそのゲッセネマの園まで来ると、イエスは弟子たちに言った。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。わたしは向うへいって祈ってくるから、その間ここに待っていて、目をさましていよ。」
それから彼は、少しはなれた林の奥に行き、月光の中にただひとり跪いて祈った。
「父よ、もし出来ることなら、この時を過ぎ去らして下さい。あなたには不可能のことはありません。どうぞこの杯をわたしから取りのけて下さい。
しかし、わたしの思いによってでなく、み心のままになさって下さい。」(同上14)
祈り終わって弟子たちのところにもどってみると、彼らは師の苦悩も知らぬげにぐっすりと眠っていた。イエスは言った。
「まだ眠っているのか。もうよかろう。時が来た。見よ、わたしを裏切る者の足音が近づいてきたではないか。」
彼の言葉が終わらぬうちに、暗がりの中から一団の人々が近づいてきた。剣と棒をたずさえた、祭司の下役や兵隊たちだった。
その群れの中からとびだしてきたユダが、イエスのそばに近よるなり、「先生」と呼んで、イエスに接吻した。それが合図だったのだ。ばらばらと兵士たちはイエスをとりかこんで捕え、からだに縄をかけた。
これを見た弟子の一人(おそらくペテロ)が、剣をぬいていきなり役人を切りつけた。剣は片耳を切り落とした。しかしイエスは、それをおしとどめて言った。
「剣をおさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」(マタイ伝26)
イエスは暴力にたいしてさえ愛でむくいておとなしく縛られ、おとなしく曳かれていったようだ。弟子たちはみな師を見すてて逃げ去ったとある。
ただひとり、引き立てられてゆくイエスの姿をじっと見つめていたのは、イエスたちに二階を貸して食事をさせた人の息子だった。しかし、その少年も荒くれ男たちにつかまりそうになると、あわてて逃げた。
この少年が、最初にイエスの伝記を書いたマルコだったらしい。」
「聖書物語・新約物語」山室静著より
感想
>しかし、イエスは弟子たちに深い不信を抱いていたらしく、きびしく答えた。
イエスは不信なんか抱いていなかっただろう。前にも書いたが、天の父以外はみな子供なのだから「なぜ疑うのか、信仰の薄い者よ」などと叱っても、しょうがないと思っていたんじゃないかな。
それに、「今夜、鶏が二度鳴く前に、そういうあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」なんて未来予知としか考えられない。言われた方だって、嫌味とか戒めの言葉とは思わないんじゃない?
>これを見た弟子の一人(おそらくペテロ)が、剣をぬいていきなり役人を切りつけた。剣は片耳を切り落とした。
これペテロなの? ここのシーンは以前から知っていて、「汝の敵を愛せよ」がまるで実行出来ていないなと思っていたが、またイエスの弟子にも暴力的な奴もいたんだなと思っていたが、根性なしのペテロ説が有力だったのか。ちょっと調べた所、メルギブソンの「パッション」でもそう描かれているらしい。
「49.彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。
50.しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。
51.すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕(しもべ)に切りかかって、その片耳を切り落した。
52.そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。
53.それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。
54.しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。
55.そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。
56.しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子(でし)たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」
「マタイによる福音書」第26章49節~56節
ペテロは間違いなく逃げただろう。しかし、「ヨハネによる福音書」では、
「1.イエスはこれらのことを語り終えて、弟子(でし)たちと一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれた。そこには園があって、イエスは弟子たちと一緒にその中にはいられた。
2.イエスを裏切ったユダは、その所をよく知っていた。イエスと弟子たちとがたびたびそこで集まったことがあるからである。
3.さてユダは、一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人(びと)たちの送った下役どもを引き連れ、たいまつやあかりや武器を持って、そこへやってきた。
4.しかしイエスは、自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼らに言われた、「だれを捜しているのか」。
5.彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「わたしが、それである」。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。
6.イエスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた。
7.そこでまた彼らに、「だれを捜しているのか」とお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスを」と言った。
8.イエスは答えられた、「わたしがそれであると、言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」。
9.それは、「あなたが与えて下さった人たちの中のひとりも、わたしは失わなかった」とイエスの言われた言葉が、成就するためである。
10.シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕(しもべ)に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった。」
「ヨハネによる福音書」第18章1節~10節
ユダの接吻も描写されていないし、ガセネタ臭い。
「44.イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻(せっぷん)する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け」。
45.彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
46.人々はイエスに手をかけてつかまえた。
47.すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕(しもべ)に切りかかり、その片耳を切り落した。」
「マルコによる福音書」第14章44節~47節
「47.イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子(でし)のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻(せっぷん)しようとして近づいてきた。
48.そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。
49.イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、
50.そのうちのひとりが、祭司長の僕(しもべ)に切りつけ、その右の耳を切り落した。」
「ルカによる福音書」第22章47節~50節
いきなり、切り付けた訳ではなくイエスに尋ねたのか。これも怪しいね。
「69.ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人(びと)イエスと一緒だった」と言った。
70.するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。
71.そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人(びと)イエスと一緒だった」と言った。
72.そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
73.しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。
74.彼は、「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。
75.ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。」
「マタイによる福音書」第26章69節~75節
こんな人物が剣で相手の耳を切り落としたとはとても思えない。つまり、聖書の内容を鵜呑みにしてはいけないという事。
http://www.catholic-teachers.com/SEISHO2.htm(念のため、否定している訳ではない。自分の頭でよく考えてね。)
おまけ