参考資料923 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

世界の統治者が出現する
「イエス・キリストの“再来”を予告する人たちは、はるか昔からいた。また、イエスが再来する年や場所を予言した者も大勢いた。人びとは財産を売りはらい、仕事を放り出して、白いローブを着こんで真夜中に山の上に座り、説教者が言ったとおりになるのを待った。結局は何も起こらなかった。が、愛すべき“再来論者”たちは、いまでも親愛感のこもった目で見られている。
 二千年近く前にパレスチナで死んだひとりの男が、この二十世紀になって地上に現れるなどということが、いったい可能だろうか。理性的に考えれば、受け入れることも理解することも不可能な話だ。ナザレのイエスが捕えられ、十字架にかけられたのは間違いない―――二千年も前の話だが! だが、イエスが終末の時代に復活し、世界を破壊から救うと語ったことも間違いない事実なのだ。
 そして、もうひとつ、わたしの理性にさわることがある。すでに述べたとおり、イエスの予言がすべて実現しているという事実だ。イエスの時代より何世紀も昔の予言者が予告した事件も、少しの狂いもなく実現した。イエスの誕生の日時、生まれる場所、生まれる家庭、家族はガラリヤのナザレの出だが、エジプトに逃がれ住むこと、十字架にかけられたこと、ローマ兵が十字架のかたわらで言った言葉、何もかもがイエスの生まれる何百年も前に予言されていた。
 そんな予言が可能だったということも、わたしの理性にさわる。だが、事実は事実である。いまわたしたちが調べていることを理解する道具としては、理性はすこぶる不適切なものだということを認めないわけにはいかない。
 言うまでもないが、多くの神学者はイエス・キリストの“再来”を霊的に解釈して、どっちつかずの無難な態度をとっている。ところが、イエスの、そして弟子や使徒たちの言葉を読むと、どれをとっても復活については、霊的解釈を封じるために非常な注意がはらわれているのだ。
 本書の執筆にあたって、予言の前後関係を乱さずに、イエスの再来をうまく言いのがれるすべはないかと、わたしはずいぶん研究を、いや、苦労をした―――が、むだだった。いまでは、イエスがかつて地上にいたときと同じように肉体を持って再来する、と教えない神学者たちを、理性に対して不誠実だと責めたてざるをえない。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(下)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>すでに述べたとおり、イエスの予言がすべて実現しているという事実だ。イエスの時代より何世紀も昔の予言者が予告した事件も、少しの狂いもなく実現した。イエスの誕生の日時、生まれる場所、生まれる家庭、家族はガラリヤのナザレの出だが、エジプトに逃がれ住むこと、十字架にかけられたこと、ローマ兵が十字架のかたわらで言った言葉、何もかもがイエスの生まれる何百年も前に予言されていた。

旧約聖書の預言実現はシンクロニシティーレベルだが(例えば、ぶどう酒と酢の違いとかある)、イエスが特別な存在である事は間違いない。それにしても、つい1年ぐらい前まで私もイエスが磔刑になる時「神よ、神よ、どうして私を見捨てられるのですか」と叫んだので仏陀と違って解脱とかはしていないんだろうなと何十年も思っていたが、そのセリフは旧約聖書の1節である事や私は一度死んで3日後に蘇るという事を弟子達に言っていた事を考えれば、あえて叫んだのはまず間違いない。これだけでも特別な存在だが、実際に復活したと仮定するなら(未来人による)「神の計画」としか考えられない。
補足:http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12104348084.html(「イザヤ書」第53章もイエスの預言の成就で有名らしいが、私に言わせればシンクロニシティー。)

>言うまでもないが、多くの神学者はイエス・キリストの“再来”を霊的に解釈して、どっちつかずの無難な態度をとっている。ところが、イエスの、そして弟子や使徒たちの言葉を読むと、どれをとっても復活については、霊的解釈を封じるために非常な注意がはらわれているのだ。

あまり関係ないが、イエス・キリストを霊的存在として「祈り」で願望実現を考えている人もいるようだが、

「今日与えられました御言葉の14節で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」。そして15節で「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」
 これをわたしたちが聞いた時に出てくる疑問は二つあります。一つは、本当に自分の願い事を神様はなんでも聞き入れてくださるのだろうか?という問い、もう一つは神様の御心とは一体何なのだろうか?という問いです。
まず、最初の問いに対して、聖書からその答えを聞いていきたいと思います。15節で「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」これと同じことが福音書の中で何度も告げられていることをわたしたちは知っています。例えば、マルコによる福音書11章24節「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」マタイによる福音書7章7節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」あるいは、ヨハネによる福音書14章13~14節「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」、15章7節「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」、16章23節「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」この他にも、ヨハネの手紙一の14節15節と類似している箇所はたくさん存在します。この手紙と福音書で語られることの違いは、福音書ではイエス様が直接語った言葉であるという点です。このイエス様は、神様に願うこと、すなわち神様に祈ることはなんでも、かなえてくださるということを言っています。」
引用元:http://www.yokohamashiloh.or.jp/reihai/message/shiloh_message130929en.htm

この方も述べておられるように「神様の御心に適うこと」が大事なのだろう。ただし、私の個人的見解は、聖書に書いてある事は全て真実で願いは全て叶うのだろう。ただし、その条件はイエス・キリストが肉体を持った存在として目の前に実在している事だろう。その根拠は、「ヨハネによる福音書」第11章のラザロの復活である。勿論、こんなのは嘘か比喩だと言う人ばかりだと思うが、私は未来人(UFOに乗っているような存在)が死者の復活を行ったと見ている。少なくともイエスの超能力では自分は復活させられないからね。

「39.イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
40.イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。
41.人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
42.あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
43.こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
44.すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。」
「ヨハネによる福音書」第11章39節~44節

裏を返せば、イエス・キリストが再臨していない状態でいくら個人的願望を祈っても全く実現しないだろう。そもそもイエスの話は常に自分が一緒に存在している想定で話しているようである。

「それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
10.そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。
11.それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。」
「ヨハネによる福音書」第12章9節~11節

「17.また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。」
「ヨハネによる福音書」第12章17節

おまけ