参考資料918 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

古代予言はSFを超える
「自分たちの予言の内容にとまどったのは、予言者自身も同様だったにちがいない―――“神なる救世主(メシア)”に関する予言の多くはいかにも矛盾だらけのように見えるからだ。
“神なるメシア”は一方で、おだやかで謙虚な人物、“他人から軽蔑され、拒まれて、不幸を背負い、悲しみを知りぬいた”人物、“ユダの家”の者たちさえもが拒絶して、十字架上で死ぬ人物として描かれる。
 またもう一方では、威厳をおびて現れ、永遠に支配する“王の王、主の主”と形容される。“神なるメシア”は、“ハルマゲドンの戦い”で集結した国々を征服し、地上に平和をもたらすとされる。メシアの王国は地上を覆いつくし、すべての国はその足もとにひれ伏し、“メシアなる王”は平和のうちに、しかし鉄の杖をもって永遠に国々を治めるという。
 古代の予言者たちが、矛盾のもとになる予言をいっさい改めようとしなかったのは、彼らの信用問題にかかわることだったからである。予言は正直さと信仰の深さをはかるものさしだったから、予言者は自分に示されたことを一字一句忠実に書き記し、その予言が一見矛盾したものに思えても“つじつまを合わせる”ことはしなかった。
“神なるメシア”の誕生、生活、死、復活に関する予言は、ナザレのイエスによって成就した。しかし、父祖ダビデの王座についてイスラエルを統治する、という予言はまだ実現していない。また“王の王、主の主”として世界の国々を治める、という予言も実現していない。民はひれ伏すどころか、イエスを拒絶したのだから。
 実現していない予言を“霊的に”解釈しても、なんの役にも立たない―――以前、聖書に忠実、というより独創的な解釈をする牧師が、教会こそ“主の王国”であり、いかにして天の下にあるすべての国の民の心をとらえたかについて、長々と説教するのを聞いたことがある。この牧師は、それが“キリストの普遍的な王国”の意味だと説明したのだ。
 だいたい、どんな教派だろうと“教会”がつかむ人の心と、キリストが王となってつかむ人の心が同じわけがない。たとえ同じだとしても、イエスが世界を征服し、鉄の杖で統治するという予言を実現させるのはあなたたちだと胸を張って言えるほど、人びとにキリスト教の信仰心を持たせられるかどうか疑問である。
 予言者が意味したのは、世界の国々が実際に戦うことであり、生身のメシアが実際に行動することなのだ。
 エゼキエルとヨハネのふたりの予言者は、ふたりとも、“ハルマゲドンの戦い”とは軍隊同士がぶつかり合う本物の戦争で、《自分の軍隊に対して命令をくだす》メシアは、みずからも戦いに加わる生身の人物だ、とはっきり述べている。
 そこでわたしたちは、“SFを超える”SFに直面する―――テーマは、およそ信じてもらえそうにないイエス・キリストの“再来”である。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(下)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>またもう一方では、威厳をおびて現れ、永遠に支配する“王の王、主の主”と形容される。

「11.またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
12.その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。
13.彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言(ことば)」と呼ばれた。
14.そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。
15.その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
16.その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。」
「ヨハネの黙示録」第19章11節~16節

因みに、この「鉄の杖」で治める人物はイエス・キリストではない。その理由は、同書第12章に、

「龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽そうとかまえていた。女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。」
第12章4節~5節

とあるからである。つまり、「終わりの時」に生まれてくる人物という事になる。ただし、この子がハルマゲドンを戦うとは思えない。その理由は、コーランにこうあるからである。(念のため、イーサーはイエス・キリストの事。)

「イスラームの伝承によれば、イーサーはマフディー(正義の導き)による戦の最中に降臨すると考えられている。 マフディーとは、イスラームの終末論ではイスラームの救世主として知られており、反キリスト( al-Masīh ad-Dajjāl 。偽メシア)とその支持者に対抗する者である。 イーサーは、ダマスカスの白い拱廊に、黄色いローブをまとい頭に油を塗って降臨し、マフディーに加わって偽メシアと戦う。 イーサーは、イスラームではムスリムであり、イスラームの教えを遵守する者と思われている。 最終的にイーサーは偽メシアを圧倒し、すべての啓典の民( ahl al-kitāb 、ユダヤ教徒とキリスト教徒をいう)が彼に従ってイスラームの教団ひとつにまとまるという。」
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC
この子がマフディーの可能性を言う人もいると思うが、少なくとも「終わりの時」には大人だろう。個人的には、現在の延長では永遠に聖書予言が実現するような状態にはならないと思っている。
例えば、「ペテロの第二の手紙」第3章3節~5節に「終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変っていない」と言うであろう。すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない」とあるが、キリスト教徒でも「イエス・キリストの再臨」が起こると真剣には考えていないだろう。まして、日本などは全てのキリスト教徒が人口の1%らしいので、こんな事をいう人間は絶対に現れないだろう。
そもそも「この事」って何だろうね。マフディーらしき人物の出現とか?
また、龍が食おうと待ち構えているという事は「御国の福音」か何かで世界中に「その子」がその女性から生まれて来ると判明しているという事だからね。

>だいたい、どんな教派だろうと“教会”がつかむ人の心と、キリストが王となってつかむ人の心が同じわけがない。たとえ同じだとしても、イエスが世界を征服し、鉄の杖で統治するという予言を実現させるのはあなたたちだと胸を張って言えるほど、人びとにキリスト教の信仰心を持たせられるかどうか疑問である。

現在の延長ではまず無理だろうね。というよりキリスト教関係者のブログを読んでいると、キリストの愛とか霊とか抽象的な話ばかりで、1%の壁は永遠に越えられないだろう。
もっと酷い所では、イエス様に祈れば何を食べてもいいから糖尿病だがあえて暴飲暴食をしているような事を書いている人もいた。この「祈り」が曲者で「努力の否定」につながる。個人的には「終わりの時」の「祈り」は実現するかもしれないと思っているが(出口王仁三郎によると「時節には、炒り豆に花が咲く」そうである)、平常時の「祈り」が実現しないのは歴史を見れば明らか。(プラシーボ効果はあると思っているが。)たまに奇跡が起こるのはその人が特別な超能力者か強運で超常現象が起こったからだろう。普通の人の信仰レベルでは糖尿病が悪化して足の指切断となるのが現実である。

>テーマは、およそ信じてもらえそうにないイエス・キリストの“再来”である。

この人はキリスト教徒ではないらしいが、イエス・キリストの再臨を信じているとはさすがイギリス人。日本人ではまずいないだろうね。オカルト好きでも、救世主はサイババのような聖者とか仏陀の生まれ変わりとか少なくとも見た目は普通の人間だと思っているだろう。私も昔はそう思っていたが、去年「ヨハネの黙示録」を初めてまともに読んでみたら「キリストの再臨」は比喩ではなく「イエスの再臨」(携挙)で選別が目的だと考えるようになった。

「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」
「ヨハネの黙示録」第3章7節~10節
http://www.christian-life.jp/Bible/Shinkaiyaku/Rev/Rev005.htm(「ヨハネの黙示録」第5章)

おまけ