参考資料160 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

「ところで諸君は、仏者がその昔、30年40年かかってなにを悟るのか、という疑念を抱かれたことはないだろうか?悟りとはいったいなんだろう?座禅で精神を麻痺させるのか。頭脳を低劣にして無感覚にさせるのか。それとも長時間の瞑想によって一種の自己催眠に陥り、わずかに安心の幻影を捉えるのではないのか―――。春充もそのように疑うひとりだった。ところが、大正12年、偶然にも完全な正中心の姿勢にぶつかって、彼の考えは180度の一大転換を遂げたのだった。「なんぞ知らん。正中心の悟得はかくも明朗でかくも鮮活なる現象であろうとは。頭脳ますます澄徹、精神ますます闊達、身体ますます健全である」正中心の光明世界を描写するとき、春充は大歓喜に酔い痴れているかのようだ。「オオ―――完全な正中心を得た瞬間のあの絶美な天地の姿はどうだ!なんというスバラシイ詩的神境だ!まったく超現世の清さ、輝かしさだ。清快壮絶―――これをなんと表現するか。形容に絶している。ただ恍惚、驚嘆、讃美、忘我というよりほかはない。宇宙神秘の秘宝は、各人の正中心に潜んでいる。無限の光明である。絶対の歓喜である」だがそこには重い鉄の扉が閉ざされているのだ。いい加減なことでは開かない。一大鉄槌を振り上げ、渾身の力をこめて叩きに叩き、大音響とともにこの鉄扉が打ち砕かれて、ダイヤモンドの霊光燦然たるとき―――人は初めて真の自己に生き、天地の真の姿を直視することができるのだ。まさにこれは父子不伝の妙であって、進んで自ら得ようという者でなければ、子といえども与えることはできない。わが身をもってこの真諦に悟入しない限り、想像することさえ不可能だろう。春充のこの体験は古来、悟り、光明、啓示、イルミナシオン、黙示、ニルヴァーナ、三昧などと呼ばれてきた現象に共通するものがあるようだ。それはまたすべての宗教、神秘主義の源泉ともいえる。ただそのなかにあって肥田式強健術がユニークなのは、一切の観念的精神修養を排し、形をもってただちに精神を支配するという点にある。道元は悟道の極秘として「身を直にして前に屈まず。後ろに仰がず。左右に傾かず。耳は肩に対し、鼻は臍に対す」とただその座法だけを教えた。そして、「初祖(達磨大師)西来して諸行を努めず。経論を講ぜず。少林にあること9年、ただ面壁座禅のみ。打座はすなわち正法眼蔵涅槃妙心なればなり」と説いたのも、これまた正中心を得る方法にほかならなかったのである。・・・・機械的に正中心を定めてこの大活力と大歓喜とを得る。これこそすなわち禅の極致、悟道の妙諦であることを春充は疑わなかった。この信念は当時禅界随一の巨人といわれた飯田欓隠との出会いによってますます強固なものとなったのである。春充は飯田欓隠の座禅の形が自分のそれと寸毫も違わないことを知った。そして欓隠も春充の強健術を見て感嘆の声を連発し、「無我にして宇宙と合体し、活ける禅、大悟徹底の境地、アノ瞬間世界に光を与えている」とまでいっている。

・・・・「中学1年以来の難発性吃音症、強迫観念、赤面症、神経衰弱、対人恐怖症に悩んでいましたが、22歳のときに肥田式強健術を知りました。1日30分の練習を1週間つづけただけでそれが完全に治ってしまったんです」(O氏、36歳、出版業)
これは正中心の鍛錬によって横隔膜が強大になり、ひいては恐怖、煩悶、憤怒の興奮を抑える生理的効果があるためだ。春充は語る。「私は正中心を得てから恐怖を感じることができなくなってしまった」「どんな危険に遭遇しても、かつて恐怖を感じたことがない。のみならずはっとしたとか、ああよかったなどと後で思うことさえない。風の吹くほどにも感じない」四六時中、恐怖、怨恨の感情が起こるときは、自ずから健康が阻害されるが、これらが一掃されるだけで自然と健康が増進するわけである。強健術は、神経衰弱やノイローゼ、吃音症の治療などにも欠くことができない運動なのである。」
「鉄人を創る肥田式強健術」髙木一行著より

おまけ