参考資料28 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

「千年王国を実現させるため、イエスが「自分を愛するように、あなたの隣りの人を愛せよ」(マタイ福音書19章19節)と隣人愛を説いたことは、キリスト教徒でなくてもご存じだろう。ところが隣人愛を説いたのはキリストだけではない。釈迦も孔子も、あるいはマホメットも同様のことを語っている。あるいはマルクスにしても同様だ。それが曲者なのだ。現在、世界中のあらゆる政府や地方自治体はその主義のいかんを問わず、貧しい者を救う「福祉事業」「福祉政策」を施行することを宣伝している。たとえそれが実現できても、できなくてもだ。日本のような資本主義の国ですら、貧しい者のいない平等社会をつくろうと、社会主義的な政策を立案、実践している。それは確かに隣人愛の精神から見て、素晴らしいことだ。だが、皮肉なことに、この隣人愛の精神はいったん制度となったり、法律や条例などで決められた「強制された事業活動」になったら、もうおしまいなのである。人を助けることや優しい愛の行ないは一人ひとりの意思で自発的に行なわれてはじめて愛が愛となり、親切が親切となる。しかし、これを国や市が決め、官吏、役人が事務的機械的にことを処理しているということならそれは愛でも恩恵でもなく、無味乾燥な義務、権利関係となってしまう。キリストはただ「貧しい者、苦しんでいる者が救われれば良い」と教えたのではない。彼は単に不幸を除去することを目指したのではない。それよりも愛がすべてを支配することが目標なのである。誰が見ても救われないはずの者が救われる――ここに神の恩恵があり、愛の支配がある。人間各自の心のなかに自由や自発性が息づいてはじめて、愛も愛の奉仕も可能となるのだ。社会主義は隣人愛の動機から生まれたという点では偉大だが、すべての問題を経済制度、政治制度の問題に帰したため、人間各自の慈愛心などまったく問題にしようとはしなかった。「人間性の解放」を目指したはずの社会主義が、結果的に見るに耐えない非人間的な制度となってしまったわけは、この人間の心を無視したことにある。人間が誰しも三聖人のようであれば社会主義もうまく活動しよう。だが大部分の人間は罪ある弱い生きもので、決して聖人ではない。どんな制度や体制にあっても、人というのは、一度でも国や市の政治を動かせる地位に立ったなら、誰でもそのうまみを覚えて、その特権をめったなことでは手放そうとはしなくなる。そうなれば、いずれは腐敗した官僚機構に牛耳られて国は滅亡に向かうのは必至だ。人間が罪ある人間である限り、それはどうしようもないことなのだ。」
「666の大破滅」内藤正俊著より

感想
この人が言っているのは理想世界での事である。その証拠に同書に「キリストは、ただ人びとを救うために地上にやって来るのではない。世界を滅ぼす意図を持ってこの世に再び来るのだ。なぜならば、千年王国を建てる前にダニやゴキブリ、害虫を駆除し清めなければならないからだ。地球を救うためには、まず一度滅ぼさなければならない。ルカ福音書12章49節に「わたしは、火を地上に投じるために来たのだ」とあるのは、まさにそのことを指しているのである。」とあるからだ。
現実的にはhttp://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-10793061053.html#mainこっちの方がいいと思うね。

おまけ