参考資料27 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

「しかし、私があの事件のころをいまだに忘れないのは、ちょうど同じころ、もう一つの自殺事件が私の身近に起きたからである。・・・・彼の性格をすみずみまで知るものにとって、遭難など絶対に考えられなかった。なにごとに立ち向かうにも完璧な計画を作成し、それをなんなくやりとげるのがZだったからだ。Zの母親も思いは同じだったようだ。Zの死の一週間後、私は母親からこういわれた。「どんなに時間がかかってもかまいません。ただ、なぜ(Zが自殺した)かということがわかれば、私はそれだけで満足です」と。それから十年あまりを、私は可能なかぎりZの死の原因究明にささげてきたつもりである。いま、私はとにかく、その核心にせまることができた。しかも私が到達した事実は、Zという一人の友人の死を解明するにとどまらず、はるかにスケールの大きい、地球的な規模の舞台にまで広がるものだった。結論があまりに現実ばなれしており、信じがたいのである。だが、論理的に道筋をたてて考えていくと、間違いなくこの恐ろしい事実にたどりついてしまうのだ。・・・・Zが死んだあと、彼の母親を訪れたときに、彼女は私を、Zが生前つかっていた部屋に案内してくれた。部屋の雰囲気は私が最後に訪れた、死の二年まえとほとんど変わっていなかった。それまでに、私は頻繁に彼の家に遊びにいっていたのだ。Zは死の二年まえに、AFS(アメリカン・フィールド・サービス=フィールド財団による日米間の高校生相互交換留学制度)の交換留学生として、アメリカ東部のハイスクールに留学した。一年後、彼は日本の高校に復学した。けれども、帰国後の彼は、以前のZではなかった。留学まえのZを一言で説明するとすれば、典型的な「勉強をしなくても成績のいい秀才」であった。ところが帰国してからというもの、Zは猛然と勉強をはじめたのだ。ただ、それがどんな勉強だったかどうかということまでは、母親にもわからなかったにちがいない。そういう事情で、私は、Zが死んで一週間したとき、彼の部屋を見る機会を与えられたのである。なによりも知りたかったのは、いったいZがなんの勉強に没頭していたのかということであった。彼の本棚に並んだ数百冊の書物は、英文のものが大半を占めていた。残念ながら当時の私には、題名さえもわからないというものがほとんどだった。日本語で書かれた書物にしても、ずいぶん専門的であることは理解できたが、実際にどういう内容が記されているかを知るには、数年を要した。さらにその書物によってZがなにを追究していたのかをつかむには十年も必要だったのである。・・・・私たちにとっては、Zの死は明らかに自殺だと思われたが、遺書を残しているわけではなく、生前のZの思考を知る手がかりといえば、このノートをおいてほかにない。そこで、私はむさぼるようにして読み始めた。しかしこのノートは、そうした予想に反するものであった。他人に読まれることをまったく考えていない、きわめて読みにくい乱雑ななぐり書きで、文字は読めても、当時の私には、やはり手におえないしろものでしかなかった。彼の本棚の書物同様、ノートにはなにやらむずかしそうな数式が並んでいる。理解できないなりに、私はその内容がかなり高度な域に達しいることぐらいはわかった。Zはたしかにずばぬけた頭脳の持ち主ではあったが、アメリカに留学するまえまでは、私と彼の知識にそれほどの差はなかったはずなのだ。一年の留学と、帰国後の一年、このたった二年のあいだに、Zはまさに驚くべき速度で、最新の高度な科学知識を吸収していたことになる。Zのたち向かっていた相手は、自然科学すべてを含む、気の遠くなるほど範囲の広い領域だった。大学受験程度の区分けで簡単にいえば、物理、数学、化学、生物、地学、歴史となるだろう。これだけ多岐にわたる学問分野を猛然と研究していたとなると、かえってZが「なにを」めざしていたかを見出すのはむずかしい。しかし時間がたつにつれ、おぼろげながら、全体像が見えるようになってきた。彼は、宇宙・天体に関すること、気象や災害に関すること、生物の進化に関すること、この三つを柱とする目的を持っていたのだ。さらにそこから「人類の運命」という壮大な目標を設定していたに違いないことが、しだいにわかるようになった。」
「ハレー彗星の大陰謀」有賀龍太著より

「まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。・・・・しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼされるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」
「新約聖書 ペテロの第二の手紙 第3章3節~13節」より

「十六世紀、キリスト教が伝えられて以来、日本では「神」や「救世主」の概念はひどく歪められた形で理解されてきた。多くの日本人は、漠然と「神」「救世主」とは私たち人間を不幸のドロ沼から救い出し、無限の愛で包んでくれる母のようなもの―――と思い込んでいる。救世主というものは「愛の力」によって私たちを戦争や貧困から救い出し、現在の平和と繁栄をいつまでも保ち続け、いつかは病気も戦争もない理想の人類社会を実現してくれる素晴らしい存在ということに相場が決まってしまっている。だが、本当の神というものは、そんなに人間に都合よくできてはいない。神は私たちに愛や安寧を一方的に送り続けてくれる「幸せ配達人」などではない。神とは私たち人間の意思や思惑を超えた絶対的存在であり、私たちとはまったく別の論理で動く、恐るべき存在なのだ。ときに神は私たち人類のケチな願望、思惑などまったく無視し、自分の造ったこの世界、宇宙を平然と精算し、また新しく造りなおすはかり知れない力を発揮される。しかもそれはきわめて無慈悲に行われる。本当の神は人間の意思、意向とはまったく無関係に動かれる場合があり、われわれとわれわれを取り巻くこの世界を滅亡させるということもされるのである。世の人びとは「今の平和を維持し、人類を核戦争の破滅の淵から救ってくれれば、それが救世主」と思いがちだ。しかし、そんな神様は本当の神様ではない。本当の神とは今の腐り果てた世界を、そのまま維持したりはしない。本当の神というものは、ときに人類の思惑、願いなどに聞く耳は持たず、この世界を破滅の淵に突き落とすこともされる。ある者を救うためには、ある者は滅ぼさねばならないのだ。つまり、この世を裁くことこそ本当の神の仕事なのである。本当の愛に満ちる者は、また激しく怒る者である。天地創造の神も同じだ。愛するゆえに怒るのである。長い間、農耕民族であり続けた私たち日本人は、共同体のなかで何ごとにつけても対立を忌避し、融和を重んじてきた。しかし融和を重んじるといえば聞こえはいいが、実際には原理、原則を無視したナアナア主義、無原則主義であった。そうである以上、私たち日本人の宗教観も、無原則なナアナア主義、あいまい主義に終始してきた。そのため、救世主の概念もひどくいいかげんで、あいまいである。だから前に書いたような、「何でもいいから、自分たち人間の都合のいいようにしてくれれば、それが救世主」というご都合主義的発想が、多くの人の頭を支配するようになるのだ。」
「666の大破滅」内藤正俊著より

おまけ