参考資料12 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

借力
「1968年9月20日、日本のフジテレビに招かれ、「万国びっくりショー」に出演したのをきっかけにして、以後数年間は日本での活動が中心となった。プロボクシングの東洋チャンピオンだった武蔵中野、世界の二階級を制覇したファイティング原田などのパンチを鳩尾に受けてみせたり、キックボクサーの猪狩元秀の強烈な足蹴りに耐えてみせたりもした。また、飛んでくる矢を体で弾き返す弾力実験、手刀のスピード実験、四台のオートバイを四肢で引き止める実験など、借力の威力をあらゆる角度から証明するために実験方法に工夫をこらした。やがて超能力実験も行なうようになったが、人びとの興味が借力ではなく私個人に集中してしまうのは私の本意ではなかった。」
「「借力」の奇跡 PartⅡ《実践篇》」力抜山著より

「飛んでくる弓矢を体ではじきかえす実験である。これも何度もおこなったが、一度、日本体育大学にテレビカメラをもち込んで実験したことがある。矢は、先のとがったアルミ製。このときの計測によれば、時速400キロメートルで飛んでくる矢は、厚さ5ミリのガラスを割らずに貫通し、石油カンを射抜く力がある。30メートルの距離から放つと、フライパンにも穴があいた。私は射手の前に立ち、一瞬呼吸を停止させて、OKのサインをだした。第一矢は射手が緊張のあまり射損じたが、第二矢は私の腹に当たってはねかえった。矢の先端が肉にくい込んでからはねかえされる様子が、スローモーションビデオでとらえられた。私は第三矢、第四矢と、さらに強く弓をひき絞るよう要求した。思いきり強く射られた第四矢は、さすがに無傷ではじきかえすわけにはいかなかったが、テレビカメラがとらえたのは直径数ミリのひっかき傷であった。・・・・また、このとき、キックボクシング全日本ミドル級チャンピオン(当時)I氏のパンチ力は445.1キログラム、まわし蹴りの力は700キログラムあることが数字で示された。I氏の体は、筋肉運動で鍛えられた肉体の典型といってよいほどに均整がとれ、腕にも肩にも足にもみごとな筋肉が躍動していた。それにくらべると私の体は、なんの変哲もない中年男の肉体であり、むしろ貧弱に映ったはずである。私は両足を開いて立ち、いつものように瞬間呼吸法で肉体に放電し、合図した。まず445.1キロのパンチが私の体にめり込んだが、私の足は微動だにしない。I氏がしきりに首をかしげているのを横目に見て、私はふたたび瞬間呼吸法をおこない、今度は700キロのまわし蹴りを腹部に受けた。その瞬間がスローモーションビデオで映されたあと、司会者が差しだしたマイクに向かって、I氏は思わず「信じられない」とつぶやいた。」
「「借力」の奇跡」力抜山著より

「私がまだ俗離山で修行しているころの出来事である。いまでもまだはっきりと覚えているが、1948年12月15日の夜、私は生まれて初めて野生の虎と格闘することになった。その日、八キロほど先の民家まで降りて行って米と塩を分けてもらい、岩山の頂にある修行場に向かった。うっそうと茂っている松の大木のため、山中は昼間でも薄暗く、おまけに前日まで降っていた雨のせいで山道は見分けがつかなくなっており、行きつ戻りつしているうちにあたりはすっかり暗くなってしまった。突然、何かをたたくような物音が聞こえ、私は足を止めて耳を傾けた。何だろうと思って物音がする方へ近づいていくと、足元に獣の足跡があるのに気づいた。虎である。私はひき返そうかと思ったが、これも修行だと思い直し、息を殺して虎殺拳の構えで近づいていった。目の前に大きな岩が見え、物音はその向こうから聞こえてきた。私は岩にぴったりと体を寄せ、足音をしのばせて大岩の向こうへまわりこもうとすると、虎の尻尾が見えた。さきほどから聞こえていたのは、虎が尻尾で岩をたたいていた音だったのだ。総髪逆立つとはこのことで、全神経が張りつめ、さすがに恐ろしさがこみあげてきた。しかしこれは、かねてより研究していた虎殺しの借力拳法を試す絶好のチャンスだった。私は気持ちをとり直すと、身をころがしながら飛び出し、気合もろとも虎の腎めがけて力いっぱい蹴った。虎は身を翻して空中に飛び上がると、すぐにものすごい勢いで飛びかかってきた。私は弾き飛ばされ、すばやく体勢を立て直した。見ると、虎は次の攻撃のため身を低く構え、牙をむき出し目を光らせていた。次の瞬間、虎は一声うなると真っすぐ私めがけて飛びかかってきた。私は「いまだ」と思い、虎の心臓めがけて力いっぱい蹴った。虎はがくんと前足を折るように地につけ、その場に倒れた。私は無我夢中で虎の横腹をさらに一蹴りし、その背中に組みついて顎を締めあげた。どのくらい長い間そうしていただろうか。私は我に返ると、着物が破れ、傷口から血が流れていることに気がついた。虎はまだ死なず、足でもがきながら体を震わせていた。そして飛びあがって私を弾き飛ばそうとしたが、私は背中に組みついたまま腕を離さず、虎といっしょに山腹をころがり落ちた。私は腕がしびれ、これ以上締めつづける気力もなくなってきたとき、虎はがくりと首を落とし、息をひきとった。私はぶるぶる体が震えているのがわかった。これで虎に勝ったと思ったが、気合もろとも拳をふるい、とどめを刺さないではいられなかった。調べてみると、虎のろっ骨が数本折れていた。私の足蹴りで折れたのだが、私の蹴りには、まだ一撃で虎を倒すほどの威力はないことをあらためて肝に銘じた。この経験を生かして借力拳法の研究を積み、虎殺拳にも磨きをかけた。そして翌年の6月3日と11月3日の二回にわたって、ふたたび俗離山中で虎に出会い、殺すか殺されるかの死闘の末に虎を倒した。借力に開眼したのち俗離山を下山したのは1950年3月3日のことである。三回にわたる虎殺しは、俗離山における修行中に体験した印象深い出来事だが、そのころの私にとって、借力による体の強化は我が身を守るためにも必要なことであった。」                   
「「借力」の奇跡 PartⅡ 《実践篇》」力抜山著より

補足