街中の紹介 パートⅢ
今回は「湊町3丁目」の紹介です。
商店街の入口はこんな感じです。
![null null](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.kyoeikosan.com%2Fblog%2Fmedia%2F2%2F20100205-1.jpg)
コンビニの「サークルK」から南へ100mほど南進し、
右折して西へ約200m行き、「ナカヌキヤ」のある交差点までが通称「銀3」です。
この間に66軒のお店が立ち並んでおり、その内約7割が物販店です。
その中でも、着物屋・婦人服店など昔ながらのお店が多いのが特徴です。
![null null](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.kyoeikosan.com%2Fblog%2Fmedia%2F2%2F20100205-3.jpg)
そして、現在「銀3」の中ほどにある「GET」。
松山在住の長い人なら記憶にあると思いますが、数年前まではここに
デパートの「ニチイ」(サティ)があったんです。
大街道には「三越」、市駅前には「そごう」、そして銀天街にはこの「ニチイ」があり
それぞれの商店街の集客の目玉になっていました。
夜店の時には「ニチイ」の中の階段には若者がたくさんたむろしていました。
「ニチイ」の閉店後「GET」として生まれ変わり、色々なテナントが入居していますが、
最近では「愛work」など公共性の高いものも入居し、何とか存続しているというのが
現状です。
やはり、集客力アップのためにはその商店街の核となるような大型施設が来ないと
厳しいのかもしれません。
大きな器はあるのですから、ここに多くの若者が集まるような施設が再び来ることを
祈っています。
余談ではありますが、「サークルK」から南へ100mほどのこの通り、
![null null](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.kyoeikosan.com%2Fblog%2Fmedia%2F2%2F20100205-2.jpg)
地元の人達の間では、「魚の棚」と呼ばれているそうです。
江戸時代、現在の「中の川通り」がまだ本当の川だった頃、三津浜で上がった魚を
松山城や城下町に運ぶ時に、舟で川をさかのぼり、「柳井町商店街」入口辺りで魚を
降ろし、そこからお城や城下町へ運んだんだそうです。
そして、その荷卸場近くのこの商店街の両サイドには魚屋さんが多く立ち並び、そこ
から「魚の棚」と呼ばれるようになったんだそうですよ。
商店街の入口はこんな感じです。
![null null](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.kyoeikosan.com%2Fblog%2Fmedia%2F2%2F20100205-1.jpg)
コンビニの「サークルK」から南へ100mほど南進し、
右折して西へ約200m行き、「ナカヌキヤ」のある交差点までが通称「銀3」です。
この間に66軒のお店が立ち並んでおり、その内約7割が物販店です。
その中でも、着物屋・婦人服店など昔ながらのお店が多いのが特徴です。
![null null](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.kyoeikosan.com%2Fblog%2Fmedia%2F2%2F20100205-3.jpg)
そして、現在「銀3」の中ほどにある「GET」。
松山在住の長い人なら記憶にあると思いますが、数年前まではここに
デパートの「ニチイ」(サティ)があったんです。
大街道には「三越」、市駅前には「そごう」、そして銀天街にはこの「ニチイ」があり
それぞれの商店街の集客の目玉になっていました。
夜店の時には「ニチイ」の中の階段には若者がたくさんたむろしていました。
「ニチイ」の閉店後「GET」として生まれ変わり、色々なテナントが入居していますが、
最近では「愛work」など公共性の高いものも入居し、何とか存続しているというのが
現状です。
やはり、集客力アップのためにはその商店街の核となるような大型施設が来ないと
厳しいのかもしれません。
大きな器はあるのですから、ここに多くの若者が集まるような施設が再び来ることを
祈っています。
余談ではありますが、「サークルK」から南へ100mほどのこの通り、
![null null](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.kyoeikosan.com%2Fblog%2Fmedia%2F2%2F20100205-2.jpg)
地元の人達の間では、「魚の棚」と呼ばれているそうです。
江戸時代、現在の「中の川通り」がまだ本当の川だった頃、三津浜で上がった魚を
松山城や城下町に運ぶ時に、舟で川をさかのぼり、「柳井町商店街」入口辺りで魚を
降ろし、そこからお城や城下町へ運んだんだそうです。
そして、その荷卸場近くのこの商店街の両サイドには魚屋さんが多く立ち並び、そこ
から「魚の棚」と呼ばれるようになったんだそうですよ。