カウンセリングが別名で、精神療法・精神分析、力動的・・・?などと名前が変わるのが

未だによく、どれがどうなんだかよく分からないのですが、カウンセリングを受け始めてから、

6年半ほど経ちました。

 

カウンセリングの中で、自己嫌悪に陥り、思い出したくないことを思い出して、反省したり、

何に傷ついたか明らかにして、そして感謝や思いやりでいっぱいにしていく。

ということが、目的だったのかなと思うのですが、こんなに長らくカウンセリングに協力

してもらいつつ、かすかな疑問もある。

 

「理想」を追求しすぎているのではないかという疑問。

依存と、執着と、ドロドロしていて拭いようのない不満、不安に身悶える、最悪の場合、

身体に現れる不調や、精神的な負担に耐え切れず、自分や他人を破壊してしまう。

じゃあその人の人生は、間違いか?

理想的じゃないから、ダメ!ハイ残念!と、不幸の烙印を押すか?

 

あんまりそうは思ってない。うすら仏教徒だからか、その最悪状態で何がいけないんだ、

と思わなくもない。

その人がそれでいやだと思うのなら、自力でその状況から逃れようとして、

人を愛そうとしてみたり、無理にでも自分の気持ちを曲げたりする、

頑張って依存症から自力で抜け出そうとしてもがく、上手く行っても行かなくても、

そういう努力も、輝かしいと思うの。

 

そしてその努力をしないのであれば、それはその人の選択であり、その人の人生である、

と思うの・・・。

だから、救いたいという気持ちが、どこからどこまでがお節介なのか、分からない。

何が言いたいかと言うと、どんな人でも、どれほど苦しくても、それもその人の大切な、

一歩一歩と歩んできた、これからも歩んでいく、唯一無二のかけがえのない人生の道のり

なんじゃないかなぁと、思うの・・・。