セッションでもプライベートでも、不思議なことに、亡くなった方のお話をお伺いすることが多いです。

昔からそうだったわけではなく、占いのお仕事をしてしばらくしてから、ある時期を境に激増したように思います。
セッションではもちろん、プライベートでも。乗ったタクシーの運転手、ちょっとお知り合いになった方との初めてのご飯、久しぶりに連絡を取った友人、普段挨拶しかしないご近所さんと珍しく立ち話になったタイミングなどなど、シチュエーションを問わず。初対面や初対面に近い方でも、いきなり、亡くなったご家族やご友人の話などをされ、涙ぐみながら、その方への想いを語られ...大切な想いを、突然聞かせていただくことに。
あまりにもそういうことが多いので、ある時期からだんだんと、こういう死者への想いをお聞きするお役目のようなものも、私にはあるのかもしれないな、などと思うようになりました。


人の生き様も、死に様も、どれひとつとして同じものがないように、死者との関わり方、死者への想いも、おひとりおひとりのかけがえのない大切な実感です。
たくさんの想い出や優しさ、後悔、寂しさ、悲しみ、懐かしさ、喪失感、愛情、信頼、晴れやかさ、安堵、葛藤、悔しさ、諦め、苦悩、神秘...。言葉にできない想いがそこには無数にあり、とても尊いと感じます。

先々週も3回、先週は2回、計らずもそういう機会があり、心の中で、旅立った方々のご冥福をお祈りしました。




占いで、死期を見れますかと聞かれたりしますが、死期は見れません。
運命学を扱うものとして、密かに研究したりもしますが、死期は占いません。
簡単に死期を占うことなどは、おこがましいと私は思っています。

ただ、人が死ぬ時というのは、悪い運気や、いかにも絶体絶命しそうな星回りだけではなく、生まれ変わりのようなタイミングや、とても福々しく大変良い星回りでお亡くなりになる方も多数いらっしゃいます。

『 安らかに永眠されました 』という言葉の、奥深い意味に感じ入ります。



ある人が「大人になるということ・自立するということは、自分の死生観を確立することだ」と話していました。
私は、子供の頃から「死」というものに対する恐怖心は全くなく、よって生への執着もほとんどなく。死ぬことよりも、怪我や病気で「痛いこと」のほうが嫌だと思っていました。今もそれは変わりませんが、自分が死ぬことよりも、愛する人に死なれることのほうが、ずっと辛いというふうに感じます。愛する存在が消えゆく哀しみ、残された辛さや、孤独...それも痛みですね。

「死」とは、すべての終わりでも、断末魔の苦しみでも、永遠の別れでもなく。
死者は、ひと足さきに還るべき場所へ、宇宙へ解き放たれて、溶けていくのでしょう。

生死とは夢のようなもの、生死とは光の瞬き、瞬間瞬間の宇宙の生成のリズムの中で、私たちは踊る粒子。

 

 

死者のことを想う時、不思議なサインをもらう人が多くいます。そうしたお話もまた、大変興味深いものです。

この宇宙は、ちゃんとつながっていること。死者とも、いつでも逢えることを思い出させてくれます。