私の、ブログにいらしてくださって

ありがとうございます🙇✨✨✨✨


私は、小さい時から女子同士でつるんで

行動するのが 苦手でした。

どちらかと言うと 男子と居たり一人で

いる事が多く だからといって

寂しくないわけではありませんでした。

いつも 空ばかり見て

雲に話しかけてみたり  花ゃ木に話しかけていました。

小学生の時 夜寝ていると、

何かに起こされて

小さいおっちゃんが2~3人(小人)

外に行こうって 窓に指さして

歩いているのを見たり

幽体離脱したことも ありました。

そのことがあってから

霊とか信じていましたし、何だか

見えないものが

いるんだなと思って 母に話したら

あんたには、わかるんだねって言われて

そうなんだと思いました。



よく見ていた本は、怪談話とか

うしろの百太郎とか タロット占い

スピリチュアル雑誌 ムーとか

占いの雑誌 My Birthday とか

服が好きでファッション雑誌 Lemonとか見ていました。


四人兄弟の長女として 両親は共働きでしたので 小さい時から

帰りが遅い両親の代わりに

ごはんの用意や兄弟の面倒を見てきました。

 

小中高とずっと一緒だった わりと仲良しの友達(馬場恵美子さん)が

去年5月に病気で、亡くなってしまいました。かなり、ショック😱⤵️⤵️でした。

私は 一度友達になると付き合いが長く 友達を大事にしています。


もう1人、中学からの友達みゆきちゃんとは 

いろいろなエピソードがあります。

 エピソード話はまた 後で

 

 

私が小学六年生の時 団地から新築一戸建てに引っ越しました。

私が中学3年のとき 両親がパチンコに はまり

そこから 生活がどん底になりました。

 

中学1年から 新聞配達をして自分のおこずかいを 稼いでいました。

中学2年の夏に 配達先の おじいさんが自宅の木に 首吊り自殺をしていて

ぶら~んとぶら下がっているおじいさんに 挨拶をして 応答がなかったので

私も なんかおかしいな~と 思って


そこの家の人に 声かけようと玄関に

向かったら

一生懸命 お経を唱えている人の声がして パトカーのサイレンが聞こえてきて  

ハッと‼️ 我に返って 怖くなり

そこから 新聞配達をやめてしまいました。

 

高校は洋裁が得意だったので 家庭科に

入学しました。

今は ぜんぜん洋裁しませんけど(笑)

入学資金も 育英資金を利用したり 観光ホテルのお掃除バイト代を授業料に充てたりしていました。


高校三年の頃進路を決めるとき

看護師になりたいと決心しました。

病院に働きながらの お礼奉公ありの

准看護学校の入学でした。

働きながら学校は、とても大変でした

なんだか、その頃働いて感じた医学って

おかしいなと直感で

感じていたのが、爆発して

半年で辞めてしまいました。

なんだか、変だ 後になって約30年経ってやっぱりその直感はあってたんだって

思ったのです。


辞めた後 いろいろな仕事につきました。

病院が 立て替えた学費を払わないといけなかったため スナックでバイトもしました。返済が終わった後は、


友達みゆきちゃんの、お母さんが子連れ再婚の話が出ていたことで悩んでいて

「じゃあ私と家出して

名古屋の友達をあてに行こうかって」 

飛行機に乗って友達の高橋さん家に

転がり込みました。

18歳の夏でした。

1週間か、10日して みゆきちゃんの

お母さんから 再婚しないから

帰っておいでと連絡があったので

みゆきちゃんは、鹿児島に帰ってしまいました。

いつでも、みゆきちゃんとは一緒にいたので市役所に戸籍謄本取りに行く時も

遊びに行く時も、バイトも一緒だったし

うちの両親の話も みゆきちゃんの

お母さんは知っていたから 長いこと泊まらせてもらったりと だいぶとお世話になったのです。


みゆきちゃんが鹿児島に帰るとき悲しかったけど 私も就職先を見つけたので

一緒に帰ることはしませんでした。

派遣だったですが、SONY幸田でテレビ

向けのカメラやビデオを作る流れ作業の

仕事で寮に入り働きました。


楽しかったですが、今一つ自分の不思議な力をお役にたてるところがないかなと

新興宗教に入りました。

その新興宗教は、医学は間違っていると

言ってたので 私の考えとあってるなで

入ってみたんです。

ちょうど、選挙があると言うことで

私も選挙活動のお手伝いをしました。

選挙カーに乗って 手を振るだけの

お手伝い すごい楽しかった‼️

いろいろ経験が出来たのですが

鹿児島に帰ることにしたので やめてしまいました。

両親は、私が元気に暮らしていたので

心配はしてなかったみたいですが

家の状況が かなり悪くなり

取り立ての電話は鳴りやまない

最悪の状態までなっていました。

家を競売かけられるとなって

家を手ばなし

家族は、大阪の母の姉に助けてもらい

大阪に引っ越し文化住宅に住むことになりました。

私は、その時付き合っていた彼氏と同棲していたので鹿児島に残り

家族だけ先に大阪に住む事になりました。


もう、大丈夫だろうと思っていたのですが、母に電話してみたら

父が交通事故にあったから 来てと行ってみたら ずいぶん変わり果てた感じの両親でした。

お互い冷めていた感じか強く 特に母が

父を嫌がっていたのが印象に残っていて

数日一緒にいたけど 部屋が狭くて

一旦私は鹿児島に帰り どうしても両親の事が気になったので 鹿児島のアパートを引き払い 彼氏と大阪に引っ越しをしたのです。


夏の暑い盛りに、事件がおこったのです。


 続く