「私が〜」と自己主張ばかりする低い「我」の状態に落ちてしまうと、自分で自分にがっかりしてしまうけれど、
 
 
それは、「高い意識」「ハイヤーな自分」も分かっているということ。
 
 
「高い意識を感じる」という「体験」にこだわり、「体験」を求めてしまうと、「こだわる」という低い「我」にもどってしまうというパラドックス。
 
 
「落ちた」「下がった」とがっかりして「ない」を感じる選択をしても良いし、「高い状態を知っている」と「ある」を感じる選択をしても良いんだよね。

 
私たちは、選びたいものを選び、見たいものを見ている。 
 

  
 
面白いな、と思う。