日野兼光

1145年~1196年(51)



兼光は妻の母、高階英子の後ろ楯があった。


高階英子

1151年~1216年(65)

高階英子のまたの名は丹後局。

英子の夫は後白河上皇側近の平業房。

夫との間に数名の子どもを儲けた。

その一人が日野兼光の妻だ。


平清盛のクーデターで、夫は伊豆へ流罪となり、脱走しようとしたので処刑されてしまった。


夫の死後、英子は後白河上皇に近づくと、たちまち上皇の寵愛を得て、

皇女を一人生んだ。


英子は政治にも介入した。

まるで楊貴妃のようだった。

後白河上皇崩御後は出家したが、

尚も政治に介入し続けた。

土御門通親と手を結んで、九条兼実を関白退任に追いやった。


鳥羽上皇も本格的に政務をとるようになると、英子は朝廷から去り、亡き夫の所領にあった浄土寺に住み念仏を称えて暮らした。

去り際を知る人だったようだ。