日本海を航行して、越後に向かう修行僧にとっての珠洲岬は、これから先行く地が、都からひときわ遠い地に至ることを実感させた。


「我らが修行に出でしとき、珠洲の岬をかい回り、打ち回り、振り捨てて、一人越路の旅に出でる」


都人にとって珠洲岬は、日本海の最果てに至る門。平時忠配流先に適当と判断。そこは九条家領「若山荘」


1185年9月23日

平時忠は護送された。

都で妻子と離別して、名のみ聞きし、能登へ赴く時忠は、近江国堅田を過ぎる頃、再び帰ることのない悲しみを涙ながらに歌に詠んだ。


「帰りこむ、ことは堅田に、ひく網の、目にもたまらぬ、わが涙かな」


そして平時忠は能登へ流されることの悲運について語る

「昨日は西海の波の上に漂いて、

怨憎会苦の根を舟の内に積み、

今日は北国の雪の下に埋もれて、

愛別離苦の悲しみを、

能登の雲に重ねたり」


時忠は馬緤浦に着いた。

そこから山手に入った大谷の則貞に入った。


1185年11月、源頼朝は全国に守護と地頭を設置。

能登国町野庄地頭→三好氏

能登国大屋庄地頭→長谷部信連

平氏憎悪に燃える者を平時忠監視のため補任する。


知行主を平時忠の縁戚である藤原基房とし、それがせめてもの後白河上皇の平時忠に対する心使いであった。


平氏流罪解かれる直前、

1189年2月24日、

62歳で生涯を閉じた。