平時忠
1130年~1189年
★平清盛の妻・平時子の弟
★後白河上皇の妻・平滋子(建春門院)の異母兄
■平時忠二度の出雲への流罪
1160年、平清盛の発言力が高まるなか、平時忠は、妹・滋子が後白河上皇第7皇子(二条天皇異母弟)を出産したことを機に、独自の行動が目立つようになると、
「二条天皇に対してゆゆしき過言をした」として解任されたり、
二条天皇呪詛に関わったとして、平清盛の働きかけにより、出雲へ配流されてしまう。
1165年、二条天皇崩御。
二条天皇派だった平清盛は出家し、政治の中枢から離れると、再び後白河上皇が主導権を握るようになる。
配流されていた平時忠は復帰。
2年余りで急激に昇進し公卿に並んだ。
1168年、高倉天皇即位する。
時忠の妹・滋子は天皇の母なので、
皇太后に立ち「建春門院」と号した。
時忠は後白河上皇の側近として活躍し政情は安定したかのように見えたが、、、
後白河上皇と対立する延暦寺が、
朝廷に強訴するという行動に出た。
藤原成親の知行国は尾張国。
尾張国目代が、延暦寺領の神人に乱暴をはたらいたので「藤原成親の流罪」を強訴をしてきたのだ。
後白河上皇は公卿を集め対応を協議すると、平時忠は早急な対策をとることを進言する。「藤原成親の流罪」だ。
翌日、藤原成親流罪が決定した。
しかし、4日後、「平時忠の進言に、事実ではない点があった」という理由で、逆に時忠が出雲に流罪となった。
■建春門院の調整
1169年、政情不安を危惧した平清盛が京都六波羅へ入ると、後白河上皇に圧力をかけ、藤原成朝の解官と、平時忠の召喚が決定。
後白河上皇と平清盛は、不協和音を奏ではじめた。
政界維持には後白河上皇と平清盛の協力が必要である。二人の調整役として建春門院が動いた。
平時忠は二度の流罪で、後白河上皇も平清盛も信が置けなくなり、建春門院の側近となった。
建春門院の強い意向により、高倉天皇と、平清盛の娘の時子との婚姻が決まった。建春門院はこの婚姻により政情安定化を図った。
4年後、建春門院は病に倒れ崩御。
建春門院の死により、後白河上皇と平清盛の不協和音は再び鳴り響く。
■怒りの爆発💥
後白河上皇は、成人して政務を行うようになった高倉天皇に早く譲位してほしかった。自分の権力が抑制されるからだ。
高倉天皇にはまだ子がいない。
譲位するとなると、天皇が迎えていた養子に譲位することになる。
清盛は娘の時子が皇子を生むまでは、高倉天皇の譲位は絶対あり得なかった。清盛が権力を握るには、時子が皇子を生まなければならない。
2年後時子は皇子(安徳天皇)を出産し、時忠の妻が乳母となる。
よかった。。
平清盛はさっそく、生まれたばかりの皇子を皇太子にするよう、後白河上皇に迫り、皇太子に立てた。
平清盛の娘・盛子と、息子・重盛があいついで亡くなったのを機に、後白河上皇は清盛に反撃。盛子と重盛の領地を没収した。
この対応に怒った平清盛はクーデターを起こし、後白河上皇を幽閉。
反平氏、親後白河上皇側の官僚を大量解官断行し、平氏側の人材を官僚に就け、武力を背景とする平氏政権が確立。
高倉天皇は安徳天皇に譲位させ、院政をとる形にし、平時忠は政務に未熟な、高倉上皇を補佐することになった。
クーデターという武力により成り立った平氏政権にとって、安徳天皇、高倉上皇、後白河上皇は人質なのだ。
平氏のやり方に、反平氏の怒りは爆発💥
以仁王の挙兵を機に、反平氏は動いた。
平氏にとって京都という地は、敵に囲まれた危険な地となりつつあった。
平清盛は福原の地へ向かった。
そこを新しい都にするつもりだ。
しかし清盛の意に反して全国的に争乱が広がり、平氏が派遣した反平氏追討軍は大敗する。
反平氏側は天皇や上皇を京都に戻せと要求し、延暦寺も山城国、近江国を横領すると恐喝しはじめ、
清盛は京都に戻ることを決意した。
クーデターから1年余り過ぎていた。
11月に京都に戻り、翌年1181年1月14日、高倉上皇は21歳で崩御した。
2月には平清盛も死去。
平氏政権の選択肢は後白河上皇の院政開始しかない。しかし後白河上皇は平氏に対しては憎しみしかなくなっていた。
後白河上皇は内密に源頼朝と連絡をとって打ち合わせをする。
あとは源氏の武士たちが勝ち進み、
京都へ入るのを待つのみである。
平氏の敵は内外にいた。
1183年5月、木曽義仲北陸道にて平氏を撃破。7月義仲軍比叡山まで到達。
平宗盛は京都防衛を断念し、勢力回復のため、安徳天皇と後白河上皇を連れて西国へ行く計画をする。
後白河上皇はそれを察して、延暦寺へ逃亡。幽閉はもう懲り懲りで敏感になっていた。
7月25日未明、平宗盛は安徳天皇を連れて都を脱出。
平時忠は内裏に向かい神鏡を取り出してから都を後にした。
27日、後白河上皇は「平氏追討」を宣言。後鳥羽天皇を即位させた。
1184年、平氏は一の谷の戦いで大敗し、壇之浦の戦いで壊滅した。
平時忠は壇之浦で捕虜となり、4月入京。神鏡を守ったことで減刑を請い、娘を源義経に嫁がせることで庇護を得ようとした。
時忠、死罪は免れ、
能登へ流罪となる。
能登での忠親は、親平氏の働きかけにより丁重に扱われ、1189年能登で生涯を終えた。