源平の争乱は北陸道諸国に変動を起こし、九条家領地である能登国珠洲郡若山荘の年貢米納入も停滞した。


能登国にある平家領の管理担当は、清盛の甥である教経。

直接的には現地に派遣した平氏家人が行っていた。

その平氏家人が、源氏に攻められたので、部下を見放し京都へ逃げ帰った。

見放された部下はみな、首を斬られて死んでしまった。


1183年、木曽義仲による北陸道攻略作戦が展開されると、越中、能登、加賀の武士、白山宮の僧兵が木曽義仲に加担。

倶利伽羅合戦や安宅合戦で平氏を撃退した義仲は、北陸軍団を率いて上洛。

平氏一門を、京都から西国へ追いやった。

しかし

次は木曽義仲兵が、京都を乱したので、それを源義経が征伐する。

次は源義経が源頼朝の怒りをかい、

義経は朝敵となる。

源頼朝一門の争いが起きたのは、

後白河上皇の責任。

優柔不断で無能過ぎなのだ。


そしてやっと、

数々の兵乱は終わりを告げた。


1185年、源頼朝は平氏から没収した膨大な領地を整理すると、郡司に変わって地頭を設置し、地方の領地を監視・監督・管理した。


源頼朝は九条兼実を支援していたので、九条家領・珠洲郡若山荘には地頭は置かず、旧来からの源季兼の子孫=日野家が管理した。

(季兼の娘は、日野家と結婚し、日野家が管理することになる)