■源頼朝、九条兼実抜擢

源頼朝は平家を没落させた。

そして後白河上皇の独裁政治防止のため、後白河側近を解官させるよう、働きかけた。


九条兼実の兄二人の家系、近衛家・松殿家は政治の中枢から外した。

近衛家は平氏と、松殿家は木曽義仲と、それぞれ婚姻関係を組んでいたからだ。源頼朝の敵だった者と、親密な関係を結ぶ家は危険である。


摂関と藤原氏長者には、

九条兼実を任命させた。

源頼朝は兼実を援助することにした。


■病は気から

九条兼実は、これまでの気の病が嘘のように回復し、政務に邁進する日々を送った。


が、しかし


前夜に言葉を交わしたばかりの良通が、、

嫡男の良通が、、

22歳で急死した、、

兼実はうちのめされた、、、


兼実は喪が明けると

悲しみを仕事へのエネルギーに変え、

娘を後鳥羽天皇の皇后にさせることを目標に、活動開始させた。

その翌年、めでたく娘の任子は、後鳥羽天皇の皇后に立てることができた。


その頃、、

土御門通親と丹後局を中心とする、

九条兼実反対勢力が形成されつつあった。


後白河上皇が崩御すると、九条兼実は、誰に気兼ねすることもなく、政治を主導していく。

だが、やはり、それは長くは続かなかった。兼実は厳格すぎたのである。


彼の政治方針は、前例、しきたり、儀式によって「昔のような平和な国に戻す」であり、新しい意見を取り入れることは決してしなかった。

そんな兼実は、ほとんどの貴族に嫌われ、後鳥羽天皇にまでうざがられるが、余計に意固地になったのか、

決して政治方針を譲らなかった。

れまさしく老害である。


そんな兼実の情報を得た源頼朝は、

兼実への支援を打ち切った。

後鳥羽天皇の皇后である娘が生んだ子は女子であったことも重なり、

天皇近臣からも見切りを付けられ、

兼実は関白の地位を負われた。


その後はの九条兼実は、

浄土宗の法然の弟子になり、

念仏を唱える日々を送りました。