■藤原聖子

藤原忠通長女

藤原聖子

1122年~1182年(60)


忠通は7歳の娘・聖子に摂関家再興の望みを託し、崇徳天皇の皇后にした。聖子は子を生まなかった。

聖子は幾人もの子の義母となって、その子を養育することに喜びを感じて幸せな一生を送った。


■能登国司 源俊兼

能登国司の源俊兼は珠洲郡のほとんどの荘園を私領とし、子の季兼に相続した。その荘園は500町ほどの大規模荘園、若山荘である。


■なぜ私領化ができたか?


(1)鳥羽院政期に荘園増大計画が立てられた。


(2) 郡司らは珠洲郡河川流域の土地を開発し、開発した土地は国司の元へ寄せられた。


(3)公領は国司の管轄下なので、いったん公領とする


(4)能登国司退任にあたり、

公領を私領化した。


(5)役人に干渉されず、荘園保全を確実にするため、藤原聖子の権勢を頼って名義上寄進し、下級貴族の私領は、

皇室領となった。


■源季兼

地方官を歴任した後、藤原聖子の父である藤原忠通に家司(所領管理・事業の事務・主人の補佐)として仕えていたので、父から相続した若山荘を、確実に保全できた。


若山荘の領主は藤原聖子で、

源季兼は、領家職となる。

領家職は、荘園の年貢を徴収し、

領主にはその一部を納入し、

残りが領家の収入となる。


■若山荘領家相続

藤原聖子

九条兼実(聖子養子・異母弟)

九条良通(聖子養子・兼実子)

九条任子(後鳥羽天皇后・兼実娘)

九条道家(兼実孫)

九条忠家(道家孫)


■若山荘預家相続

源俊兼

源季兼

娘→日野資長(娘の夫)→代々、日野家に相続される。


季兼には男子もいるが、日野家に預家職は、乗っ取られたようだ。


日野家とは藤原北家真夏流の家系