★近衛家の家祖

藤原忠通四男(実質は長男)

近衛基実(1143年~1166年・23)



★松殿家の家祖

藤原忠通五男

松殿基房(1144年~1231年・87)



★九条家の家祖

藤原忠通六男

九条兼実(1149年~1207年・58)



■近衛基実

16歳で摂関を継ぎ、

藤原氏長者となる。

父が死去すると、平清盛はこの機を逃さず、基実(21歳)に、娘の盛子(9歳)を嫁がせた。そして近衛家の家政機関にも、平氏を数人入れ摂関家の財産管理を任せた。


基実が23歳の若さで死去。

基実の嫡男・基通はまだ7歳なので、

後任の摂関と藤原氏長者は、基通が成長するまでの継なぎとして松殿基房が就任した。

父・忠通の遺言により、摂関は近衛家の子孫が代々継いでいくことが決まっていた。


このとき清盛は、一部を除いた膨大な摂関家領を松殿家に分割せずに、盛子だけが相続できるよう手配し、清盛は盛子の父として、摂関家領の管理ができるようにした。


これは「平氏による摂関家領の横領事件」だが、「基通が成人するまでの一時的措置」という理屈が通り、

後白河上皇も認めた。


11歳で近衛家の家長となっていた盛子であったが、1179年23歳の若さで死去した。

盛子には子はいない。

嫡男基通と清盛とは何の関係もなくなったので、清盛に遺産を管理する権利がない。。。

相続権は松殿家にもあるが、

渡したくない。。。


清盛は盛子の遺産である摂関家領を「基通が摂関と、藤原氏長者になるまで」という理屈で、高倉天皇に預けることに成功した。


■松殿基房の風見鶏

この措置に不満をつのらせた松殿は、

「藤原氏長者として相続の権利あり」と、後白河上皇に訴えると、上皇は皇室家長の権限を行使し、高倉天皇が預かっている盛子遺産は、後白河上皇の管理下に入った。


これをきっかけに、

後白河上皇と平清盛の対立は頂点に達し、清盛は上皇を幽閉。上皇側の高官は追放。基房も大宰府へ左遷となる。


基房は京都に帰還。

基通が摂政になっていて、復帰できず。

平家都落ちで基房も同行するが、

途中抜け出し京都へ戻る。

義仲が後白河上皇を幽閉すると、

基房は娘を義仲と結婚させ連携し、

義仲の後ろ楯によって、基通を退任させ、我が子の師家を摂政に。

義仲が義経に討たれると師家は罷免され、基通は摂政復帰する