藤原忠実は自分の感情に正直過ぎて、

白河上皇の空気が読めなさ過ぎて、

白河上皇を激怒させてしまい、

10年間の謹慎処分を喰らった。

白河上皇は忠実の嫡男で二男忠通を、鳥羽天皇の関白とし、藤原氏長者も忠通が継いだ。1121年の事である。


1129年、白河上皇が崩御。

鳥羽上皇が政権を握ると、

忠実を政界に復帰させた。

1132年、忠実再び摂関の下位である

「内覧」に就任。

忠通は鳥羽天皇の関白であり、

その下位に忠実が座ることになる。

忠実は複雑な気持ちを抱く。

息子への嫉妬である。


忠実と白河上皇とは気が合わなかったが、鳥羽上皇とは親密になれた。

二人は白川上皇の遺言を破り、

忠実の娘・泰子を鳥羽上皇の妃とする。

忠実は、妃となった可愛い娘を哀しませることのないよう、自分の悪い癖「周囲の空気が読めない、または読まない」を改善するよう努力をし、鳥羽上皇関係者との親交を深めた。


「空気が読めない・読まない」事の根本原因は「人間関係が煩わしい」という感情にあり、感情のコントロールも必要なのだが、、、


嫡男の藤原忠通の子は女子ばかりだったので、父が宇治できんしん忠通が28歳になったとき、5歳の弟・藤原頼長を養子にしていた。

しかし40歳過ぎてから次々と男子に恵まれたので、実の子に摂関を継がせるため、忠通は父の反対を押しきり、

頼長との縁組みを解消した。

忠実・頼長と、忠通の関係は悪化。


忠実は忠通に「関白を頼長に譲れ」と要求する。もちろん忠通は拒否する。

すると、再び忠実は感情に振り回され、

忠通から藤原氏長者の地位を奪い、

頼長を藤原氏長者とし、

自分の内覧の地位を頼長に譲った。

そして忠通とは絶縁した。